メアリースーについては、
いつもいつも書いています。
テーマがないのはメアリースーのせいだ、
ということはこれまで書いてこなかった事かも知れません。
メアリースーとは、
「自分が楽して幸せになりたい」という作者の願望が、
作品に出て来てしまうことです。
それを外から見ると、
作品内のキャラクターが、
「自分はなるべく楽をしようとしていて、
結局他人に甘えることでご都合的に解決する」
という状態になっている現象です。
ペアとして出てくるキャラクターがビッグマザーです。
母親とは限りません。
「主人公を理由無しに全面的に許してくれて、
甘えさせてくれて、解決してくれる人」のことをそういいます。
「大事な人を、二駅先に置いてきた」
では、父と、恋人の綾の二人がそれに当たります。
主人公は逃げて、励まされて元に戻っただけで、
なんらかの試練を越えていません。
このストーリーは「働きマン」の最終回と同じ構造です。
都会に疲れ帰郷、親に励まされ戦線復帰、
におけるメアリースーについては過去記事に書きました。
これらすべてを「窓辺系」と命名した脚本家もいます。
女が窓辺で憂鬱になり、
まいっかと励まされて元に戻る構造です。
映画の最も重要なアクションが、
「窓辺にもたれかかる」というとても小さくて非ダイナミックなものからの、
命名です。
逆にいうと、メアリースーとは、
試練を怖がり逃げることの別名かもしれません。
人は、
自分は試練から逃げたいですが、
他人が試練から逃げているところを見ると、
みっともないと思うものです。
つまり、作者はそう思っていなくても、
観客はこの主人公が試練を越えていないことに、
不満なわけです。
「総員、乗艦セヨ。」
の風見はどうでしょう。
彼も試練を越えたわけでもなさそうです。
「職務に忠実だった自分を後悔して、
偏見に満ちた自分を後悔して、
新しい自分に生まれ変わる」
というドラマを描こうとした形跡は読み取れますが、
そのドラマ本編がなかった気がします。
たとえば鬼畜米英と教えられたが、
相手も人間だったと知るドラマはなかった。
異文化の交流もなかった。
(異文化交流自体が新しかった、
「ダンスウィズウルブス」のような、
「新しい考え方を持つ民族の紹介」の要素もない。
これの翻案版が「ラストサムライ」です。
アメリカ人にとっては、インディアンと日本人は、
同じくらい珍しいのです)
生まれかわりには苦しみが伴います。
その具体的なドラマ
(ドラマとは人と人の争いだ、と単純に考えて差し支えない)
がなかったのです。
どちらかと言えば、この若い医師がビッグマザーになっていて、
主人公はこの波に乗っただけの流木でしょう。
「絶望の仮想夢」はどうでしょうか。
主人公は興味深い最悪の状態に陥ってはいますが、
それから脱出するだけの努力をしたでしょうか。
その最悪の試練を乗り越えようとしたでしょうか。
逃げ回っていただけのように見えます。
「逃げ回っているやつは死ぬ」という皮肉のテーマでもないだろうし。
「たなぼた」では、たなぼたがテーマでしょうか?
「努力していた人は、おてんと様が見ていてくれるものだ」
という昔の話ならあるかもしれないけど、
楽観的に過ぎると思います。
ビッグマザーは上司ですね。
おてんと様の代りかもしれませんが、
御都合な気がします。
「友の歌」も、典型的なメアリースーです。
主人公はたいした行動を取っていなくて、
相手のほうが大変で、
相手がなぜかわかってくれている。
「わたしは大したことないけれど、
実は愛されていたのだ」のテンプレが、
メアリースーだといえるでしょうか。
書く人はこれは気持ちいいけど、
見ている人は「なんでやねん」としか思わないです。
この主観と客観の差に、気づけるかどうかです。
ということで、裸の王様を指摘してみました。
たとえば「かもめ食堂」は典型的なメアリースー映画です。
たいして努力もしてない食堂の女将が、
なんのドラマもないまま拍手されます。
結局、これに陥らない為には、
何が必要なのでしょうか。
僕は、「試練を超えること」だと考えています。
ストーリーとは何か?という問いに、
「試練を超えることだ」と答えていいと思っています。
試練を超えるような動機、
試練を超えるような行動、
そしてその結果。
試練を越えた意味がテーマです。
たいていは足りないものが最初にあって、
それを得ることで試練を克服します。
それがたいていテーマです。
全ての物語は、この構造の変形で考えられると、
僕は考えます。
試練越えは、最終的には自力で超えるべきです。
他人に迎えに来てもらっていると、
ビッグマザーに甘える子供になってしまうからです。
物語は、だからつねに自立を扱うのかもしれません。
自立をせずに誰かに助けてもらっているから、
メアリースーは自分には気持ちよく、
他人から見たら甘えているように見えるのです。
ちなみに、立ち向かわないストーリーは物語足り得るでしょうか。
僕は「そんな甘えが日本を衰退させた」とすら考えます。
のび太で良しとされたほうが楽で、
のび太のまま社会人になった男も女もたくさんいて、
だから日本の会社は衰退を始めていて、
ついでに日本全体もダメになりつつあります。
そのときに痛み止めの麻薬のように、
甘えていてもいいんだよ、という物語が有効か、
目を覚まして戦え、という物語が有効か。
僕は後者でありたいです。
前者で商売をしているのが、
多くのラノベ、ジャニーズの歌だと思います。
さて。そろそろ、今回の総リライトする作品を決めないといけないなあ。
とくに大きな差がないけど、
タイトルが非常に気になった
「大事な人を、二駅先に置いてきた」にしてみますか。
また、一年勉強させていただきます。
後は今年のリライトを楽しませていただきますね。
ありがとうございました。
今回はメアリースーの具体的な退治を、
現場中継できれば、と考えています。
勿論毎回成功する方法とは限らないけど。
正しく見れないと、歪みも見えてこないもの。
たくさん書いてたくさん見るべきでしょう。
大変勉強になりました。
また来年を目指し精進したいです。
後半部も楽しみにしています!
過去記事も拝読した中で、作品を書き、まんまとメアリースーにはまってしまった悔しさがあります……。
書いているうちに、「客」より「自分の快楽」をとってしまったんだなぁ……。しみじみと痛いです。
総リライトに選んでいただきありがとうございます。
どんなふうに調理されるのかを楽しみにして、また勉強させていただきます。
純愛
他人のそれは分かるかと思います。
自分だけ目が曇るのも、メアリースーの特徴かも知れません。
何本か書けば、
過去の原稿を他人のもののように見ることが出来て、
客観性が育ちやすいですね。
自分だけは可愛い、あるいは自分だけダメな感じがする、
というのは人の心のひとつの欠陥ですね。
フラットに見ることはとても難しいですが、
必要なことと思います。