2019年05月30日

【脚本添削スペシャル2019】9: 旅に何故出るか

逆算をして、一幕まで戻ってきました。

第一幕は、設定部分であります。
どういう主人公か、どういうクリアするべき問題か、
そして、主人公の目的は何で、なぜ旅に出るのか、
そのあたりが示されます。


贅沢をいうと、それを示しながら、
感情移入が伴うべきです。
感情移入がうまくいくと、スムーズに話に入っていけるからです。
応援しないと面白くありません。
このストーリーの場合、
「やめるなんて言わず、再び漫画家を目指してほしい」
と観客が早めに思うようになれば、
感情移入に成功したことになります。

ところで危険なのは、
ここを読んでいる人全員は、
なんとなく脚本家を目指している人でしょうから、
「やめるのはやめてくれ」と、自分に引き付けて考えがちだということです。

つまり、何かを目指さない人の気持ちが分からず、
漫画家を目指す人の話に、無条件に感情移入してしまう危険です。
この場合、感情移入と肩入れが、混同されている可能性が高いです。

たとえば犬を飼っている人が、犬の話なら無条件に反応してしまいます。
関西人は阪神タイガースの話に、無条件に反応します。

これはよくない。
世の中には犬や阪神に感情移入しない人もいます。
漫画家を目指す話にただシチュエーションだけで感情移入する人は、
半分よりいないと思ったほうがいいです。
脚本家を目指す人は、そういったごく普通のことをわすれがちです。

だから脚本家が、
脚本家や漫画家や小説家の話を書くべきではないと僕はかんがえます。
客観性がうしなわれがちだからです。
もちろん、客観性を確保していればその限りではありません。
しかしその話が書きたいテーマのうち、
ベストの選択肢が漫画家や脚本家であることは、
おそらく稀でしょう。
だから、自分と近い人物設定をする人は、うかつだと僕はかんがえます。


まあそこは原作がそうなので、変えないことにします。
その縛りの中で、客観性をうしなわないようにすればいいだけのことです。


じゃあ、「そうでない人」にも感情移入するためには、
どうしたらいいでしょうか。
そうでない人にも「わかる」というようなエピソードがあるといいと思います。

「最初の読者」がヒントになります。
たとえば、綾は、自信がなかった主人公の、
はじめての理解者だとしましょうか。
はじめて自分を認めてくれた人がいる、
そういう状況ならば、
漫画家やそれに類することを目指していない人にも感情移入がたやすい
(少なくとも、理解できる)と思います。
誰にでもわかることから、感情移入は行われます。


では、なぜ主人公は、そんな人を裏切って、
実家への旅、あきらめの旅へ出るのでしょうか。

没が続いただけでは弱いと思います。

物語のきっかけは、「いつもと違う特別な今日」からはじまるべきです。
没になることはいつものことで、特別な日ではありません。

たとえば、没10本目という節目はどうか。
あるいは、綾がもうすぐ30だという節目はどうか。
主人公自身が30の誕生日を迎えてもいいかもしれない。

あるいは、
折角ついた担当が、「僕、担当外れることになりました。
有望な新人を育てることになったんで。
なんかあったらまた持ち込んでください」
と、降格になったことがきっかけでもいいかもしれません。

とにかく、「没になり続ける日常」から、
ジャンプがおこる、何か特別なことがおこると、
話がはじめやすくなります。

こういうきっかけは、人生経験の豊富さと関係があります。
あるいは、そういうことばかり注意して数を書いていく上で、
観察が溜まっていることもあります。
いずれにせよ、ある種の経験豊富さが、
こうしたきっかけを思いつきやすくなると思います。

日常にボコッと開いた、ギャップのあるきっかけから始めるか、
ささくれのようなものから徐々に開いていくかは、
全体の展開とのバランスかもしれません。

物語は徐々に加速していくほうが面白いですが、
序盤はインパクトがあるほうが面白い。
そのバランスを取ったほうがよいです。
逆算してきているから、
それを隠し玉にして、序盤をコントロールできます。
序盤から書くとこういう余裕がありません。
(慣れていなければリライト段階で考え、
慣れていれば最初からその計算込みで書けます)


さて。

そういう状況下、
たとえば「綾と別れる」という特別なことに出るのはどうでしょうか。

ケンカするにしても、嫌いだから別れるんじゃなくて、
綾が30になるのを恐れて、
俺じゃ幸せにしてやれないからという理由で別れる、という手もあります。

実家への旅は、そうすると、
何もかも失っての、敗北の旅だということが身に染みてきます。
センタークエスチョンは、実家を継ぐのかどうか?ということ。
(しかし再び立ち上がる期待と同時進行)

で、再びクライマックスを考えるに、
親父が漫画を描いていた、というどんでんはなくても良いような気がします。

再び立ち上がる気力を得られればそれでよくて、
「子供に作り話をする」ことで原点に帰り、
それが得られればOKだと思います。
もちろんそのエピソードだけでは弱い可能性があり、
父のエピソードをなんらか足して、
ニコイチで立ち上がる理由になるかもしれません。

このへんは、書いてみないとなんとも判断できないので、
あとで考えることにします。


元の原稿は、「ふらりと旅に出た」
くらいの感じになっています。
もう少し悲壮な旅立ちにすることで、
感情曲線の山と谷をさらに深くするのです。
谷が深いほど、山からの景色はよいものです。

日常ではふらりと旅に出ることが良いことでもありますが、
物語の主人公がふらりと旅に出ることはありません。

現実では目的のない旅の中の偶然の何かが面白いですが、
物語の中では、目的のない偶然の何かは、退屈です。
物語とは、方向性を持った時間のことであって、
それがどうなるかに集中してみるものです。
目的のないふらり旅は、バラエティのような時間感覚では面白いでしょうが、
物語の時間感覚では面白くないことは、
わかっておいたほうがいいでしょう。

日常の時間感覚と、物語の時間感覚は違う。
日常の旅は目的があってもなくても成立する。
(旅自体が目的だったりする)
物語の旅は、目的と方向性のある見世物です。


焦点の発生と集中こそが物語性の基盤です。
「別れてどうするのか」
「実家を継ぐのか」
という強い焦点を維持しながら、
ストーリーが進む体にしたいです。


さて、大体整ったかな。つづく。
posted by おおおかとしひこ at 10:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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