脚本とは、もともと演劇から生まれた形式だ。
演劇は誰か他人の役者を立てて、
彼らにある出来事への反応や行動をさせて、
解決させる。
それを我々がまるで覗き見しているうちに、
自分に引きつけて考えて、
まるで自分のことのように喜んだり悲しんだりする。
それが演劇を見ることの面白さだ。
この形式を三人称とよび、
一人称とは異なる。
これ、ゲーム実況に似てるなあって思った。
人生は一人称だ。
三人称ではない。
私は私の視点からしか私の人生を体験していない。
他人の視点で他人の人生を体験できないし、
他人が私の視点になることは出来ない。
これは物理的な制約だ。
だが、人間は、この物理的な制約を越えることができる。
想像力によってだ。
他人の体験談(一人称)を聞いている(三人称)と、
「そういうこともあるなあ」(三人称)で終わる場合もあれば、
「まるで自分の話のようである」(一人称)になる場合もある。
そして、その他人がその話の末幸せになると、
「よかったね」(三人称)で終わる場合と、
「いやーほんとによかった、俺が幸せになったみたいだ」(一人称)
で終わる場合がある。
両者の差は、
その話にどれだけ没入していたかで決まる。
その没入を、全般的に感情移入という言葉で括っている。
で、ゲームの話。
ゲームは基本的に一人でやるものだ。
対戦型や協力プレイもあるけど、
プレイヤー中心視点の画面が出る以上、
ゲームは一人称形式である。
仮に視点が三人称のゲームだとしても、
操作が一人称であり、
ゲーム内のリアクションがそのプレイヤーに返される以上、
「じぶんの体験」であり(一人称)、
「誰か他の人の体験」(三人称)ではない。
つまりコントローラーを握る限り、
ゲームは一人称である。
自分でゲームをやるときはそれに気づくことはないが、
「他人のゲームプレイを見るとき」は、
話が変わってくる。
他人のゲームプレイを見るのは、
僕はわりと好きだ。
好きなゲームなら尚更で、
「そこをそうするのか」とか「これは知らないんだな」
なんて、自分との比較をしながら見ていることもある。
さらに言えば、「ここでビビってるぞ」とか、
「いいハートを持ってる」とか、
「いいぞ」「惜しい」なんて思いながら見ている。
ゲームプレイ動画は三人称だ。
誰か他の人の一人称を、三人称形式で見るわけだ。
一人称の体験を三人称で見ているうちに、
いつのまにか一人称として見るようになる。
演劇とまったく同じ構造をしているわけである。
しかし、全てのゲームプレイ動画で、
没入して見ることがあるわけではない。
他人のテクを盗む目的で見ていると、
ずっと三人称として見てしまう。
じゃあどういうときに三人称が一人称に変わる?
その境目はなんだろう。
「その人の目的がわかったとき」
かつ、
「その人の豊かな感情を理解できたとき」
(理不尽な感情や、理解できない思考には没入できない。
あくまで自分が理解できるものに限る。
羽生名人の将棋は殆どの人には理解できない)
かつ、
「成功条件や失敗条件を理解していて、
うまく成功するかしないか、微妙なラインの時」
ではないだろうか?
その時、
その他人(三人称)の感情を、
リアルに感じて、没入する(一人称)のではないか?
これは、実況があってもなくても成立することに注意。
プレイヤーの言葉が録音されてなくても、
「何が起こっているか理解できれば」
没入が起こる。
世界のルールがわかっていて、
他人の行動から目的や感情が理解できて、
その他人のゴールイメージがわかり、
そのプロセスも理解できて、
確実に成功するか失敗するかではなく、
微妙な状況やギリギリの状況があれば、
人は没入する。
つまり、感情移入が起こる。
ゲーム実況動画のジャンルが花開いて久しい。
人のゲームを見ていて面白い時と面白くない時の差がある。
成功すれば面白いわけでもない。
ノーミスクリア動画が面白いのは、
その難易度を知っている時だけだ。
惜しいところで惜しい失敗をすれば、
それはそれで面白い動画になる。没入があればね。
その人の喋りが面白ければ、三人称動画として面白くなる。
しかしそれはゲームをネタにした、喋り動画でしかなく、
一人称を追体験する動画とは異なる。
ほんとうに面白いゲーム実況動画とは、
一人称の追体験の情報提供としての実況だ。
たとえば稲川淳二の、
「なんか怖いなーなんか変だなー」というのは、
一人称の体験に対する実況だ。
その感情を理解できるから、
私たちは他人の一人称(我々にとっては三人称)を、
「自分の一人称」に変換できるのである。
演劇。映画。
他人の語り。ゲームプレイ動画。実況。
これらには全て共通点がある。
没入(他人のものを自分に引きつけて考えてしまう、感情移入)
があるかないか、
そしてその成立条件だ。
下手な人は、
自分の一人称を詳細に記録すればそれでOKと考える。
それはまだ下手なプレゼンだ。
あなたの正確な記録など、
おれはどうでもいい。
おれがあなたの視点になれるものが、一番おもしろいのだ。
おれがまるであなたのような感情になり、
あなたのような判断基準をもち、
あなたのような情報をもっているように、
しないといけない。
そしてあなたの成功を、おれの成功のように感じられたとき、
カタルシスが起こる。
それをうまくやるためには、
情報の取捨選択がとても大事になってくる。
最初に何だけを説明するべきか、
状況を与えて頭の中に条件を構築させること、
感情をおなじように感じるようにしていくこと、
などが重要になってくるだろう。
あなたの一人称のことはどうでもいい。
おれの一人称になるような、三人称をつくるのである。
これは、
演劇、映画、三人称小説、
ゲーム実況、一人称小説、
すべてに共通の法則だ。
(一人称小説では、感情を説明しやすいから、
没入が起こりやすいと勘違いしている人がいる。
詰まらない一人称小説は、
詰まらないゲーム実況と同等である)
わたしにとっての一人称を、あなたにとっての三人称にして、
あなたの一人称のようになること。
あなたの一人称が、わたしにとっての三人称として見えて、
わたしの一人称のようになること。
三人称形式を介在させた、この構造に自覚的であるかどうかで、
物の見方は変わってくる。
2019年06月07日
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