2019年06月07日

三人称は、ゲーム実況に似ている

脚本とは、もともと演劇から生まれた形式だ。

演劇は誰か他人の役者を立てて、
彼らにある出来事への反応や行動をさせて、
解決させる。

それを我々がまるで覗き見しているうちに、
自分に引きつけて考えて、
まるで自分のことのように喜んだり悲しんだりする。
それが演劇を見ることの面白さだ。

この形式を三人称とよび、
一人称とは異なる。
これ、ゲーム実況に似てるなあって思った。


人生は一人称だ。
三人称ではない。

私は私の視点からしか私の人生を体験していない。
他人の視点で他人の人生を体験できないし、
他人が私の視点になることは出来ない。
これは物理的な制約だ。

だが、人間は、この物理的な制約を越えることができる。
想像力によってだ。

他人の体験談(一人称)を聞いている(三人称)と、
「そういうこともあるなあ」(三人称)で終わる場合もあれば、
「まるで自分の話のようである」(一人称)になる場合もある。

そして、その他人がその話の末幸せになると、
「よかったね」(三人称)で終わる場合と、
「いやーほんとによかった、俺が幸せになったみたいだ」(一人称)
で終わる場合がある。

両者の差は、
その話にどれだけ没入していたかで決まる。
その没入を、全般的に感情移入という言葉で括っている。


で、ゲームの話。
ゲームは基本的に一人でやるものだ。

対戦型や協力プレイもあるけど、
プレイヤー中心視点の画面が出る以上、
ゲームは一人称形式である。
仮に視点が三人称のゲームだとしても、
操作が一人称であり、
ゲーム内のリアクションがそのプレイヤーに返される以上、
「じぶんの体験」であり(一人称)、
「誰か他の人の体験」(三人称)ではない。

つまりコントローラーを握る限り、
ゲームは一人称である。

自分でゲームをやるときはそれに気づくことはないが、
「他人のゲームプレイを見るとき」は、
話が変わってくる。

他人のゲームプレイを見るのは、
僕はわりと好きだ。
好きなゲームなら尚更で、
「そこをそうするのか」とか「これは知らないんだな」
なんて、自分との比較をしながら見ていることもある。
さらに言えば、「ここでビビってるぞ」とか、
「いいハートを持ってる」とか、
「いいぞ」「惜しい」なんて思いながら見ている。

ゲームプレイ動画は三人称だ。
誰か他の人の一人称を、三人称形式で見るわけだ。

一人称の体験を三人称で見ているうちに、
いつのまにか一人称として見るようになる。

演劇とまったく同じ構造をしているわけである。


しかし、全てのゲームプレイ動画で、
没入して見ることがあるわけではない。
他人のテクを盗む目的で見ていると、
ずっと三人称として見てしまう。

じゃあどういうときに三人称が一人称に変わる?
その境目はなんだろう。

「その人の目的がわかったとき」
かつ、
「その人の豊かな感情を理解できたとき」
(理不尽な感情や、理解できない思考には没入できない。
あくまで自分が理解できるものに限る。
羽生名人の将棋は殆どの人には理解できない)
かつ、
「成功条件や失敗条件を理解していて、
うまく成功するかしないか、微妙なラインの時」
ではないだろうか?

その時、
その他人(三人称)の感情を、
リアルに感じて、没入する(一人称)のではないか?

これは、実況があってもなくても成立することに注意。
プレイヤーの言葉が録音されてなくても、
「何が起こっているか理解できれば」
没入が起こる。

世界のルールがわかっていて、
他人の行動から目的や感情が理解できて、
その他人のゴールイメージがわかり、
そのプロセスも理解できて、
確実に成功するか失敗するかではなく、
微妙な状況やギリギリの状況があれば、
人は没入する。

つまり、感情移入が起こる。


ゲーム実況動画のジャンルが花開いて久しい。
人のゲームを見ていて面白い時と面白くない時の差がある。
成功すれば面白いわけでもない。
ノーミスクリア動画が面白いのは、
その難易度を知っている時だけだ。
惜しいところで惜しい失敗をすれば、
それはそれで面白い動画になる。没入があればね。

その人の喋りが面白ければ、三人称動画として面白くなる。
しかしそれはゲームをネタにした、喋り動画でしかなく、
一人称を追体験する動画とは異なる。

ほんとうに面白いゲーム実況動画とは、
一人称の追体験の情報提供としての実況だ。

たとえば稲川淳二の、
「なんか怖いなーなんか変だなー」というのは、
一人称の体験に対する実況だ。
その感情を理解できるから、
私たちは他人の一人称(我々にとっては三人称)を、
「自分の一人称」に変換できるのである。



演劇。映画。
他人の語り。ゲームプレイ動画。実況。

これらには全て共通点がある。
没入(他人のものを自分に引きつけて考えてしまう、感情移入)
があるかないか、
そしてその成立条件だ。


下手な人は、
自分の一人称を詳細に記録すればそれでOKと考える。
それはまだ下手なプレゼンだ。
あなたの正確な記録など、
おれはどうでもいい。
おれがあなたの視点になれるものが、一番おもしろいのだ。

おれがまるであなたのような感情になり、
あなたのような判断基準をもち、
あなたのような情報をもっているように、
しないといけない。
そしてあなたの成功を、おれの成功のように感じられたとき、
カタルシスが起こる。

それをうまくやるためには、
情報の取捨選択がとても大事になってくる。
最初に何だけを説明するべきか、
状況を与えて頭の中に条件を構築させること、
感情をおなじように感じるようにしていくこと、
などが重要になってくるだろう。

あなたの一人称のことはどうでもいい。

おれの一人称になるような、三人称をつくるのである。


これは、
演劇、映画、三人称小説、
ゲーム実況、一人称小説、
すべてに共通の法則だ。

(一人称小説では、感情を説明しやすいから、
没入が起こりやすいと勘違いしている人がいる。
詰まらない一人称小説は、
詰まらないゲーム実況と同等である)


わたしにとっての一人称を、あなたにとっての三人称にして、
あなたの一人称のようになること。
あなたの一人称が、わたしにとっての三人称として見えて、
わたしの一人称のようになること。

三人称形式を介在させた、この構造に自覚的であるかどうかで、
物の見方は変わってくる。
posted by おおおかとしひこ at 10:17| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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