2019年06月09日

メアリースーとは承認欲求のことだ

SNSが発達して、
人間には承認欲求が醜いまでにあることが、
一般的になって知られてきたと思う。

メアリースーとは、それより以前に発見されていた、
承認欲求の別名であると考えられる。


インスタ映えを気にするあまり、
写真だけ撮ってあとは使わないとか、
隣にいる人の迷惑を気にせずに自撮りするとか、
料理がきたら食べずにまず写真を撮るとか、
「今日の私ブス」と可愛い写真を上げて、
「そんなことないよ」がたくさん来るのを期待するとか、
SNSには承認欲求が溢れている。

みんな「いいね!」をして欲しい。
いいね乞食とはよく言ったものだ。

承認欲求とは、
「私を認めて欲しい」欲求のことだ。
それ自体は動物全てにある。
犬だって猫だって、飼い主に撫でてもらうためにすり寄って来る。
子供は母親に甘えたい。

つまり承認欲求は甘えの別名だ。

逆に、大人とは、甘えられなくなった人のことである。


物語を書く人は、甘えてはいけないのだ。
何故なら、大人を楽しませなければならないからだ。

子供を楽しませることは簡単だ。
子供が甘えている状況を作り出し、
それを保護する大人のかっこよさを描けばいい。
子供が親を自慢するように、
子供はその大人の凄さを自分の凄さのように勘違いして、
同一化するだろう。

これは感情移入による同一化とは異なることに気づかれたい。
自我の境界が曖昧なゆえに、
大人と(子供である)自分との境界が失われた、
融合自我を作る現象でしかなく、
「もしこの人の立場だったら」
と大人に自分を置き換えて考えているわけではない。
(本当に置き換えていれば、
「この子供を守るべきだ」という気持ちになるはずだ。
そこまでの相対性は子供にはないだろう)

そのような子供の楽しませ方ではなく、
甘えられない大人を楽しませる責任が、
大人である我々にはあるのだ。

先にこっちが甘えてどうするのだ、って話。


勿論、「大人の楽しませ方」のひとつには、
「子供のように甘えた気分に戻らせる」はあると思う。
「のび太のおばあちゃん」はそういう話で、
だから僕らは大人であっても号泣するわけだ。

しかし我々は甘えてばかりいられない大人である。
嫁や恋人やキャバクラ嬢や犬猫に甘えることはあっても、
社会的に甘えることは許されていない。

メアリースーとは、甘えたキャラクターのことである。
自分から何もしない癖に何故か周りに認められていて、
何故かちょっとなにかをしただけで成功して、
何故か主人公になってしまう。

三人称視点における主人公は、
ヒーローでなければならない。
観客賞を取るべき人であるべきだ。
つまり、この大変な事件を解決した、最大の功労者が主人公だ。
ただ力があっただけでは、弱き我々が感情移入しない。
彼ないし彼女の内面の弱さに、我々が同情できる何かがあったとき、
「彼ないし彼女も、我々と同じ人間(あるいは大人)なのだ」
と理解を示すことが感情移入の始点であった。

だから、彼ないし彼女が観客賞を取るほどの、
活躍、葛藤、たたかい、敗北、立ち上がりに、
「がんばれ」と身を乗り出すのだ。
そしてその結末、勝利を、我が事のように喜ぶのである。


この「三人称視点主人公のあるべき姿」に対して、
メアリースーは一人称視点、つまり「私自身」なのだ。
「今観客に見られている」という意識が欠けて、
「自分だけの世界」で箱庭を作ってしまうから、
無意識の甘えが充満するのである。
SNSの写真が「私だけの世界」で充満するように。


インスタ映えばかりを社会風刺した写真に、
レストランで女たちが全員椅子の上に上がり、
料理の写真を撮っている、というのがある。
「まず食えや」と全員が突っ込む写真だ。
つまり女たちは「自分だけの世界」のほうが大事で、
レストランの世界、観客の世界を見ていない。
その視野狭窄を揶揄しているわけだ。


メアリースーはつまり、
「これが観客に見られている」を忘れた、
「私だけのSNS世界」に過ぎないわけだ。

自己が好き過ぎるあまり、
あるいは自己が傷つけられることが怖いあまり、
「架空の自分を演じ続ける」社会障害を、
演技性人格障害という。
「素晴らしい、賞賛を受け続ける自分」を演じ続けるわけだ。

芸能人はそのファンタジーを提供する職業だが、
私たちはそうではないことに気づくまで、
少しかかるかも知れない。

芸能人がファンタジーを提供していることは、
芸能人たちと仕事をすればよくわかる。
逆にプライベートがなく、哀れな操り人形ではないか、
と不安になることもある。
彼らのファンタジーを壊すのは営業妨害なので、
ここでは僕は口を閉じることにするが。

つまりSNSは、簡単に演技性人格障害を起こす道具だ。
ここで賞賛があるかないかで、個人の気分すら変調を来す、
悪魔の依存的道具である。


メアリースーは、別の形のSNSになる。
架空の私が、架空のキャラクターに賞賛を受けたい、
という架空世界の承認欲求なのだ。

その外には、観客という現実世界が取り巻いていることに、
気づくことである。
椅子に上がって料理写真を撮っているとき、
それをレストラン中の皆が見ていることに、
気づくべきである。



そうは言っても、
どうやってそれに気付けるのだろうか?

鏡を見るにはどうすればいいだろうか?

ひとつの方法として有効なのは、
「主人公の名前を変えてみる」である。
たとえばシンイチを貴教に変えてみるわけだ。
デジタル原稿なら一発で出来るからやってみると良い。

もしあなたが、
主人公を自分の分身だと無意識に思い込み、
自我と分離しがたい概念になってしまっていると、
外との関わりを意識できていない可能性がある。
その主人公を自分自身だと誤認しているわけだ。
その時突然名前を変えてしまったら、
自分の名前を変えられた違和感、嫌悪感があるはずだ。
自分の人格を否定された気分になるはずだ。

その主人公は、恐らくメアリースーだろう。

何故なら、自分と分離した他人であったなら、
改名したら、ああそうか、最初は違和感あったけど、
という程度のリアクションにしかならないはずだから。

名前が変わっても、その人の思いや役割や行動が、
変わるはずがない。
その人を指し示すポインタの名前が変わっただけのことだ。
観客から見たらそれは些細なことだ。


僕はいまだに、
登場人物の名前は、A、B、Cでいいと考えている。
それを男1、男2、女1に突然変えてもいいと考えている。
高畑シンイチや、高橋巧(今書いてる話の主人公)は、
便宜上つけた名前に過ぎない。
しかしその名前に思い入れられるような名前はつけたつもりだけど。

A、B、Cくらいの突き放し方を、
あなたは持っているだろうか?
「名前が変わったら全然変わってしまう」
というならば、
そのキャラが設定倒れで何も結果を出す行動をしていないか、
あなた自身がそのキャラクターと自分を分離出来ていないかの、
どちらかだ。



メアリースーは甘え。
そういうのは簡単だ。
甘えないようにするにはどうするかが難しい。

上司に報告するように、四角四面の詰まらないものは、
物語とは言わないし。

メアリースーを主観、報告書を客観とすれば、
客観の中に主観が発生するように書き、
最後は客観に戻すのが、
物語というものかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 11:48| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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