これを、誰が自覚しているのか。
作者か。観客か。登場人物か。
「引っ越しの準備をする」という文脈を考えよう。
もっと大きな文脈は、たとえば、
「同棲を解消するための引っ越し」としようか。
片付けているとなかなか進まずに、
昔の漫画が出てきて、
ついつい読みたくなってしまうときがある。
これが本筋、つまり同棲解消の為の引っ越しから外れた、
脇筋であることは誰もがわかるだろう。
ところが、この本に挟まれていた、
二人のラブラブだったころの思い出の何か
(たとえば挟まれていた何かのチケット)が、
出てきたらどうなるだろう。
脇筋だったと思えたのが、
急に本筋に戻るわけだよね。
つまりはこういうことだ。
本筋とは、
「今やらなければいけないこと」であり、
焦点である。
同棲を解消しなければならないし、
その小目的として引っ越しがある。
脇筋は、「それはちょっと置いといて」だ。
これを長いことやると、
脇筋なのか本筋なのか分からなくなり、
結局何が本筋なのか行方不明になってしまう。
これが、焦点を失った、
詰まらない状態だ。
この例では、
漫画を読み始めたら止まらなくなってしまい、
昔置いといた酒を発見して飲み始め、
ツマミが足りないとしてコンビニで買ってきて、
などのように、
どんどん逸れていけば、
「何がしたいんだこれ?」
となること請け合いだろう。
主人公の中では一貫したこと(現実逃避)であったとしても、
観客から見れば、
提示された焦点から外れ、脇筋に入ってしまって、
本筋が行方不明になっている、
ように見えるはずだ。
つまり、誰にとっての、
本筋、脇筋なのか、意識することだ。
たとえばAVでは、
絡みこそが観客にとっての本筋だけど、
監督にとってはそこからは工夫しようがないから、
それ以前が工夫のポイントになる部分だったりする。
インタビューなのかドキュメントなのか、
そこが監督にとっての本筋かもしれない。
絡みは脇筋扱いだと。
これは本筋と脇筋が、
作る人と見る人で、逆転している例かもしれない。
(とはいえ、監督もすけべなので、
絡み自体も焦点を持って撮るかもだけど)
作者の本筋が、観客にとっての脇筋になるかもしれない。
その逆もあるかもしれない。
誰にとっても脇筋と思えたものが、
本筋に接続する場合もある。
いま、本筋なのか、脇筋なのか、
明示した方がいい場合もあるし、
境界を溶かしたほうがいい場合もある。
脇筋は本筋の緊張感をほぐす役割もある。
コメディリリーフはたいていここだし。
授業よりも、先生の脱線の方が面白かったりしたしね。
(ストーリーの場合、
脱線の方が面白かったらダメだけど)
もちろん上級者になれば、
脇筋だと思わせて本筋だったとか、
本筋だと思わせて脇筋だったとか、
そのようなミスリードを作るようにもなれるだろう。
まずは、
作者にとっての、観客にとっての、登場人物にとっての、
本筋と脇筋を、常に一致させることを考えた方が良い。
(○○の役者のファンは○○を見にきてるだけなので、
それは全ての観客にとっては余計な脇筋だといえる)
2019年06月14日
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