欧米的議論と、日本的議論の違いを解説していて、
非常に興味深い記事をみつけた。
「日本の会議は、なぜ独り言大会になるのか」
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/16605369/
なるほど、今まで経験してきたおかしな議論は、
すべて日本的議論で欧米的議論をしていなかったからかと、
たいへん腹落ちした。
僕がよく経験してきた、
「せっかく面白いものを、みんなの意見としてて潰していく」という現象は、
この「日本的議論」によるものであった。
・一人だけ面白いほうのAを主張しても、
上が(みんなが)そう言っているから、という理由でBにする
(Aが根拠があるが、Bが根拠がないとき)
全員が納得しかかっているBに、Aという新しい要素を持ち込まないでくれ、
という要請がある
・面白いアイデアAを誰かが思いついても、
正しいプロセスを経ていないから、という理由で、
つまらないBのままにする
最初の承認プロセスでのものをそのまま実現しようとする。
それが机上の空論で現実的には不可能であったことが現場でわかり、
それをカバーするためにAを思いつくも、
「それを承認しないかぎりBをやれ」という。
で、「Aも撮影しておいて、編集段階で見せて説得する」という悪知恵が働く。
かつてはそれで逆転できたが、
最近は、「聞いてないことはやらないでくれ」と言われることが多い。
アイデアはいつやってくるかわからないし、アクシデントはいつ起こるかわからない。
それに対処できないBが、そのままずるずると金と時間を浪費し、
しかもつまらないままという悪循環が起こっている。
正統な手続きや資格がないとアイデアを出せない?
上級国民か。
・全会一致のBになりかかったとき、
新しいアイデアAを言っても、承認されない。
それどころか、「和を乱す」として非難される。
「せっかく決まりかかっていたのになんだ」と。
どちらが面白いかの話し合いなのに、
空気のプライドを優先させる。
・僕が説得を始めたら、「監督は口が上手いから、説得されてしまう」と言われた。
いま議論する場じゃないの?
口の上手さよりも、内容が妥当かどうかなんじゃないの?
・「一理ある」とはいうものの採用しない。
議論は理ではなく、情で進んでいるような気がする
・X君の意見を採用したんだから、Y君の意見も取り入れようというおかしな平等主義。
理屈があわなくても、XY双方の意見がはいっていることのほうが重要に。
こうして矛盾のままのものが世に放たれる。
・それは正論だ、と議論をつっぱね、手続き上の形式を優先して理屈を考えない
村会議に参加していない者がアイデアを出すことはできない。
仮に良きアイデアであっても。
村会議で決まったことはそのまま遂行。
仮に良きアイデアが出ても、
いまは村会議でないという理由で、あるいは村会議の招集が出来ないという理由で、
そのアイデアは検討の余地なく却下。
村会議の空気でしか承認できない。
理屈で承認するときは、だれでもわかる理屈があるはずだ。
そして理屈を武器にしたら、怖がられて避けられる。
これは、広告でも映画でも同じだった。
広告で散々この村会議の嫌なところを見てきたのだが、
映画にいってもこれがあって閉口した。
脚本家としての、監督としての僕の意見が通らなさ過ぎてびっくりした。
原作の解釈もしていない癖に、
自分の意見、あるいは社全体の空気を通すことが優先で、
「何が面白いのか」「原作の何が面白いのか」
「映画として何が面白いのか」
を議論していなかった。
そして、
いま日本の業界は、承認プロセスが複雑化している。
広告の場合、
代理店内で、クリエイティブ承認、営業承認、表現コンサル承認を取り、
クライアント内で、
担当承認、宣伝部承認、役員承認、社長承認を取らないといけない。
そして、たいがい担当以外は、会って話すことが出来ない。
こんなに段階を経たら、
村会議でしか決まらないことになる。
村会議が才能のスパークする集団ならよい。
しかしそうでないから、ひとりの才能を呼んできたのではないか?
日本の会議は潰すためにあるといっても過言ではない。
さて。
面白いものは、どうやってつくる?
僕は、全員が円卓で座り、議論をするべきだと思うよ。
少なくとも「俺が事前に聞いていないことが多すぎる」って現象はなくなる。
日本のシステムが、面白いものをつくるのに向いてないし、
日本の議論システムが、面白いものをつくる為のものではない。
突出したものこそが、面白いものだからだ。
日本の議論は均すことしかしていない。
だから、尖る俺対監督のわがままを止める周囲という構図になってしまう。
俺が面白くないならそれもわかる。
そうではないから、闇が深い。
つまり俺はいつもおかしなブレーキを掛けられ続けている。
ブレーキをかける側も疲弊し続けている。
僕は、もっとみんなで、何が面白いか議論したい。
そうでない限り、僕以上のものはできないからだ。
喧嘩するんじゃない。議論するんだ。
議論に勝ち負けはあっても、喧嘩の勝ち負けではないのに。
そして、欧米型議論のように、
全ての人が満足する答えなどない前提で、ものを作りたい。
全会一致しないが、筋の通ったものが、真に面白いはずだ。
それが出来た現場は、いままで、風魔ドラマくらいかなあ。
2019年06月17日
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