2019年06月20日

差別主義者は存在を保障されている

差別主義者でもいいじゃない。
悪魔崇拝者でもいいじゃない。
信条の自由は、人権で保障されている。
それらの存在を排斥せず保障しようというのが多様性だ。

実害があったとき=彼らの行動で自由が脅かされたとき、
法的に対処すればいいだけのことだ。
「こわいから排除する」は、中世のいじめだぞ?

「こわいからみんな同じになって安心したい」は、
多様性と逆の感覚だ。
多様性は、「こわいけど紳士協定を結ぼう」だろうが。

なので、僕は思想としては差別発言をするかもしれませんが、
行動としては差別しません。思想と行動はちがうのだ。
社会の成熟とはそういうものだと思う。
「みんなちがってみんないい」という安心ではなく、
「よくもわるくも、まもる」という不安だと思う。


これを厳密に適用すると、
「悪を正義が殺す」が通用しなくなる。
正義がなにをなすべきか、物語が成熟しなければならないと、
僕はずっと考えている。
posted by おおおかとしひこ at 11:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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