糞映画と思考停止せずに考える。
なぜエモいとダサいを連発していたのか考える。
あれはツイッターの距離感だ。
世界を変えることができず、
呟くしかない若者と同じだった。
老人ばかりに押され、税金ばかり搾取され、
○○離れするしかないほどお金がなく、
数もかつての半数に減り、
ツイッターで呟くしか日常のない、
180字が限界の短い思考。
僕はエモいということばが大嫌いだ。
そこにストーリーがないからだ。
AがBになりCになり、最終的にXになった、
という時間的変化の線、山と谷の軌跡が映画であり、
その意味や意義が物語である。
これは感動とか感涙とか感銘という感情を引き起こす。
一方エモいは違う。
「感動っぽい破片」のことをエモいという。
朝日がきれいとか、
ゴミが美しいとか、
ピアノの一音がきれいとか。
今二人がいるシチュエーションのこととか。
過去に得た物語っぽい「点」が存在する事をエモいというと、
僕は思う。
エモーショナルは点だ。線ではない。
僕はそこに若者たちの短絡を見る。
人生を苦労して生きて、
世界の幾ばくかを変えてみせる、
という人生のなにがしかを見ずに、
その破片だけあれば十分です、
みたいな感覚。
それは、リアルに人生を生きることがもう出来ない、
つまり自分の力で世界を変えられない、
若者たちの感覚なのではないか、
と思ったわけだ。
若者は長いものをもう見ない。
180字の範囲の、点の思考しかしない。
それは、長い人生がリアルでなくなったからだ。
もし人生が、
耐え難きを耐えつつも、ある目的や主義を確固としてもち、
その末に世界を変えられ、
価値観を良き方向に持って行けるとしたら、
ばえーとかエモーイとか、
ツイートしたり炎上したりすることはない。
もはや人生でそれをすることができないから、
もう人生に諦めているから、
仕事を必死でしないで早く帰りたいと思っていて、
ずっとスマホを見ていて、
そこが彼らの世界になっていて、
世界など変えようとしていない。
だって税金は重くのしかかり、
日本ヲワタからしかはじまってないし、
「日本がどうやって全盛期を迎えたのか」
もう肌感覚で知らないからだ。
失われた世代や、氷河期すら過去のことでしかなく、
テレビが流行っていて面白かった空気もしらず
(YouTubeで点の形でしかゲットできない)、
映画だって人生を前提としてるから、
そんな人生は若者たちのどこにもないからだ。
精々、ホリエモンが最も若者で人生を生きた。
それ以下の者は、人生を送ったことのない、
生ける屍世代である。
だから、
エモいと点でしか反応できない。
ダサいと点でしか反応できない。
それは、映画が前提とする、
線である人生を、
リアルに見たことがない世代の、
率直な感想であり、
思考(線でなく点であるから、「反応」と言っても良い)
なのである。
つまり若者は反応しかできない。
だからツイッターはバズか炎上しかできない。
反応しかできず、
自らが責任を取って世界を変えていくことはできない。
永遠に観客であり、プレイヤーになれない。
オリンピックに反対することはできない。
中止を求めることはできない。
ただ嫌だなあと思い、
なるべく被害を被らないようにしようと、
避けることしかできない。
満員電車の中で小さくなるように。
もうこの電車の行き先を変えることは、
若者にはできないし、やろうとしてないし、
できる事を見たことがない。
なぜゾンビなのか。
「死ぬまで死んだ感覚」だからだ。
つまり、
映画が前提とする「人生を生きる」が、
もう若者にはないからだ。
邦画は死んだ。
若者が死んだからだ。
さて。
これは僕の若者と接していての実感だ。
正しいかどうかはわからない。
点でしかなく、線として批評できていないと思う。
観察分析対象が、もはや線でなく点でしかないから、
砂をつかみつづけるしかない。
もう線など日本にないのだ、
というのが過激な結論だ。
普通の人生すら、今の若者に保障されてないもの。
普通の人生を求めて野に放たれたのが、
せめて求めるものなのだもの。
それが最上の結論の国。
ぼくは、勝手に人生を生きて、ゆたかな物語を書きたい。
商売としてマスに乗るかはわからない。
そのマスは、消失した。
日本が滅びたとすれば、
数ではなく、心が先だった。
2019年06月22日
この記事へのコメント
コメントを書く