2019年06月22日

初心者の脚本の特徴(「We are little zombies」評4)

この糞脚本には、初心者のダメな特徴が詰まっている。

メアリースー、出落ち、セカイ系、
プロット(行動)の希薄さ、
(その代わりの)ディテールの豊かさ、複雑さ。

一言で言うと、「子供が駄々をこねただけ」の脚本になっている。
ここは脚本について議論する場なので、
初心者脚本のダメなところを指摘することで、
初心者たちを奮い立たせることにしよう。

死体蹴りをすることで、他山の石とされたい。


以下ネタバレ。


この物語のプロットは、
あっさりするほど簡単に書ける。


Act1

バス事故で急に両親を失った子供は、
引き取ろうとした叔母を振り切り、
葬儀場で知り合った3人とともに放浪生活をして、
バンドを組むことになる。

Act2

それが偶然そこにいたスカウトマンの目に留まり、
トントンとメジャーデビュー。
楽曲は拙いが、
「両親を失った4人」という話題性があり、
瞬く間に時のバンドとなる。
調子に乗って「バス事故現場でのライブ」を企画したが、
非難轟々になり突然解散。

叔母に引き取られる瞬間、
逃げて事故現場へ行くことにする。

Act3

大冒険して現場へむかう。
途中大きな事故を起こし、諦めるのか行くのか決断タイムがあり、
行くことへ決める。
現場を見た後、4人はそれぞれの方向へ生きることにした。



書き下してみれば、
あまりにもペラペラの物語だ。
これでも丁寧に書き起こしていることが、
本編をみれば明らかである。

あれ?
バンドの残りの3人のサブストーリーはプロットに書かなくていい?
ぼくは不要な贅肉だと考える。
なぜならこの物語は主人公ヒカリしか人格がなく、
残りの3人は「他人」ではなく、
ヒカリの人格を拡大したものでしかないからだ。

他人なら考え方や人生観の違いで必ず衝突があり、
それを乗り越えるか決裂するかするはずだ
(コンフリクト。それこそが物語の中心)。
それがなく、自我の拡大でしかなかった。

ラブホではなにもせず40時間寝ただけだし、
バンドを組むことに反対するものはいなかったし、
音楽の方向性でもめなかったし、
女を取り合うこともなかったし、
最後の旅では4人は1人の人格だった。

つまりあの4人は、物語の役割上1人だ。

バンドを組むまでの自己紹介が長すぎたと、
誰もが感じるだろう。
そこに他人がいなくて、
ただ1人の自己紹介だから、
糞長く感じるのだ。


つまり、この物語の登場人物は何人か?
2人だ。
主人公と、チンピラマネージャー(池松壮亮)だ。

他に人は出ていたが、
人としての役割を果たしていない。
物語の中での人の役割とは、
他人であることだ。
もう少しいうと、他人として主人公(や他の人)と、
コンフリクトを起こすことである。

この物語は、誰とも喧嘩をしていない。

主人公はマネージャーに騙された形で、
デビューさせられて解散させられただけで、
主人公たちは喧嘩をしていない。
逃げただけである。

つまりこの物語は、
「大人のいない場所へ行きたい」
という子供たちの駄々こねを、
延々と描いていただけにすぎない。

死ぬか/逃げるかの二択しかなくて、
「大人を倒す」「理想郷(子供王国)を作る」は、
選択肢に入っていない。

これが僕が子供だと批判するところだ。
我慢するか逃げるかしか選択肢のない話は、
話ではない。


物語とは、行動でその世界をどう変えて行くかを描くものである。
それを100しなければならないとしたら、
この物語は1しかしていない。
コンティニューするかしないかの二択しかしていない。
行動をすれば他人が反発する。
コンフリクトである。
そのコンフリクトをどう乗り越えるか
(説得、騙す、殺す、うまく仲間にする、
共犯者になるなど)
こそが、物語の中心であるというのに、
子供が死ぬか逃げるかを、最後に選択するだけだ。

(ただ状況に流されて、最後にひとつだけ選択する、
というメアリースーのパターンを、
僕は「落下する夕方テンプレ」と呼ぶことにした。
同名の駄作映画をご覧ください。
駄作「へびいちご」も同じ型をしている)


これは子供の話なんだから、
選択肢がないのは当然?
じゃあなぜそんなものを、「映画という物語」にする意味がある?

傑作「スタンドバイミー」では、
子供たちは行動をする。
死体を探す旅に出ること、
作り話をすること、
本当の話をすること、
鹿を見たことを隠しておくこと、
銃を本気で構えること。

このことが、スタンドバイミーを物語にしている。
夏休み一ヶ月いじめっ子から逃げる話ではない。



では、ゾンビたちをひとつひとつ検証していこう。

【メアリースー】

子供であろうがなかろうが、
主人公はなにもせず、周りが動いてくれて、
ご都合よく成功して行く、
「わたしだけ楽をしてしわあせになりたい」
という甘えを、メアリースーという。

これは、「主人公は他人でなければならない」
という三人称の原則を忘れ、
主人公=私と、自他の境界を誤認したことが原因だ。
だから作者の甘えがもろにでる。

甘えてはいけないわけではない。
もろに出していることに気づくべきで、
つまりはチャックが開いている。

この話では、ヒカリは子供で、
親には愛されていないが、
ゲームや仲間には愛されていた。
(愛されていたというか、同じ波動だっただけだが)
大人たちにもオーディエンスにもなぜか愛された。

バンドを組むことも、
色々な調達も、
最後の冒険への扉も、
全部他の3人がお膳立てしてくれた。
逆に、残りの3人はお膳立てするためにいる。
つまり喜び組である。

なぜ彼らの楽曲が良かったのか、理由はない。
なぜチンピラがそこでバイトしていたのか、理由はない。
才能という偶然が自分に眠っているという幼児的全能感は、
メアリースーの特徴だ。

メアリースー的物語の特徴は、
クライマックスにおいて、
とても簡単なことを決断して、一歩踏み出して終わることだ。
この決断のために2時間があったのだ、
という形式をとることが多い。
なぜなら主人公は一切行動してこなかったからで、
はじめての行動がその選択だからである。

映画は行動を単位とする文学だ。
100の行動を描くのが常識で、
ただひとつを描くなら1分あればできる。

メアリースーだと、
「らくしてしあわせになりたい」
と思っているので、ひとつの選択肢しか苦痛を感じたくないのだ。


メアリースーの原因は、
自他の認識が崩れていることだ。
鏡を見て全裸でオナニーしてるのが漏れてることに、
気づくことだね。



【出落ち】

出落ちとは出た瞬間が一番面白くて、
その後何も面白くないことだ。

4人のキャラの延々続く自己紹介は、
すべて出落ちだった。

ヒロインの親の殺人事件は何も関係がないただの設定だし、
中華屋の家事も首吊り自殺も、
その後何にも絡んでこない。
つまり設定出落ちだ。

このパートがなくてもプロットに何も影響がない。
(たとえば、
逃げた殺人犯がライブに潜入していて、
ステージに上がり、デビューライブが台無しになるとか、
腐った牛乳が敵を倒すのに一役買ったとか、
そういうことが、
設定をプロットに絡めることである)

すなわち、設定出落ちである。


また、彼らのバンド活動も出落ちだった。
出て騒がれておしまい。
富士山事故場所ライブもない。
バスの運転手は自殺し、「人生のラスボス」も消失する。

出て終わり。じゃ死ぬしかないじゃん。
出て、目的をみつけ、苦しみ、乗り越え、
が物語だ。
出て終わりなら、1分でいい。

物語とは、影響のしあいを描くことだ。
出て、交わらないのは、物語ではない。



【セカイ系】

主人公ともう1人と世界しかないものを、
セカイ系という。
これは未熟な子供の、世界はこうなっている、
という描像だと思う。
他人は1人。それ以上は分化してないなにか。

この物語も同様。
親やプロデューサーは「大人」というセカイのカテゴリであって、
個人の他人として存在していなかった。
3人の仲間は、ヒカリの拡大自我と、
ご都合よくパスを出してくれるためだけの、
喜び組でしかなかった。
ヒロインはいない。他人じゃなかった。
子供特有の「自我の溶け合い」だと捉えられる。

子供は自我が弱く、
自分と味方の自我が溶け合い、
あと敵くらいしかいない。
(逆にいうと、子供時代の終わりとは、
他人と自我を分けることである)

それは未熟である。
他人が何億人もいて暮らしている、
世界の構造を捉えられていない。

その世界で何をするかが物語である。

残りの他人は、マネージャーだったが、
解散とともに退場してしまい、
コンフリクトはひとつもなかった。
喧嘩や争いをしたことがなく、
曖昧な笑顔で逃げるだけの、
子供の対処法だ。



【プロット(行動)の希薄さ、
(その代わりの)ディテールの豊かさ、複雑さ】

だから結局、
プロット(=自発的行動のリスト。100のオーダー)は薄くなる。
代わりに埋めるのがディテールだ。

8ビットファミコン的な、ゲームボーイ的世界の作り込みや、
ゴミ収集車のバロンガ空間のモノクロ合成、
デビュー曲PVの作り込み、ホームレスミュージカルなどの、
作り込みやら、
設定の細かさやら、
ガジェットの情報量やら。

そんなものが空間を埋める。

ヴィレッジヴァンガードを思い出す。
楽しい空間だけれど、
そのディテールを捨象すれば、
ただのモノ売り場でしかなく、
そこに物語性はない。

設定の羅列であり、
行動の結果世界が変わって行く、二時間かけての大変化はない。

(個人的にいえば、
名古屋の中身のないキラキラを尊ぶ文化が僕は死ぬほど嫌いで、
ヴィレッジヴァンガードが名古屋の企業と聞いて、
吐きそうになったことがある)



たぶん、今まで見たどの脚本よりも、
未熟な初心者だと考える。

40年以上の映画好き生活のなかで、
おそらくはワーストを更新した。
脚本添削スペシャルに応募してきた、
アマチュアたちの脚本の方が万倍ましだ。

いや、実写進撃の巨人もあるし、デビルマンもあるし、
犬と私と10の約束もあるし、FLOWERSもあるよな。


何故ゴーサインが出たのかわからない。
日活は脚本が読めないの?
読めるけど、金を中抜きしたかったの?
読めるけど、東宝が日活にケツを拭かせて、
日活は渋々恩を売ったの?
posted by おおおかとしひこ at 13:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。