どういうことかというと、
文化、文明、人類がこれまで考えてきたことが、
失伝しかかっていて、
感情だけで判断する人が増えている。
いや、増えたというより可視化されただけかもしれない。
文明や文化は、昔から一部の人にしかなく、
ずっと獣のような人たちがいたのかもだ。
だが、獣の声が大きくなり、
文化文明を語る人を、津波のように押し流している、
とぼくは感じる。
「we are littl zombies」は世紀のクソ映画だが、
これは時代の反映でもあると思った。
一番尖ってる奴が、一番時代を表している。
これが最も尖っているかはおいといて、
時代の悪いところがそのまま反映されている、
そのような構図だと、
引いてみると理解できる。
エモい。ダサっ。キモっ。ふるっ。
味がしない。まずっ。やべっ。
なにこれ。撮ってるだけ。
バンドやる。なんで。
わかんね。なんだよ。えぐっ。さむっ。あつっ。
ずっとこんな調子だった。
これはなんだ。
点の感情だ。
もっというと、文章ではない。
理論や理屈は、要素である言葉を組み合わせ、
そこにひとつの線を生じることである。
理論や理屈が線をなし、網となり、
文化や文明の基礎になる。
ところが、点である感情は、
それを感じたらそれで終わりだ。
神経細胞が発火して、それでおしまい。
線香花火のようである。
暗闇で一瞬光り、また暗闇に戻るだけ。
だから彼らは、感情の言葉を発して、
また無言に戻る。
子供だから。
子供というのは、
感情の言葉を発しておしまいで、
そこで思考を停止することで、
それらの言葉をつないで、
文章を作ることができないことだ。
つまり、
これまでの人類が紡いできた、
文章ベースの文化なるものと、
断絶しているとぼくは考える。
ツイッターを見ればいい。
感情を吐いているだけだ。
自分のわかる感情に、「わかる」「エモい」「いいね」と言い、
自分のわからない感情を、「キモい」「意味わかんね」と拒否し、
自分の嫌いな感情を、「死ね」「辞めろ」「ヲワタ」と排斥しているだけ。
これは魔女狩りをする中世と同じである。
魚の群れ、鳥の群れはこのような感情反応で動いている。
似た者同士で集まり、
似てない者をシャットダウンし
(これは病気に冒された仲間を見捨てる行為に直結し、
群れの存続を結果的に維持することに役立つ)、
異なる者を排斥する。
そういう「群体のアルゴリズム」だ。
群れのロボットをコンピュータでシミュレートすることができる。
「自分と似た姿のものを追いかける」
魚プログラムを100匹ランダムに放すと、
次第にある一匹のあとを追いかけ、
また別のものがそれを追いかけ…
となって、
我々がみるような「魚の群れ」を形成することが知られている。
「一見群として見えているものでも、
個別のアルゴリズムの総合で形成されていて、
群としてのアルゴリズムは存在しない」
ことが結論で、
「群は個別の同じアルゴリズムから作れる」
ということも示唆することになる。
魔女狩り、いじめは、この同じアルゴリズムから作られている、
とぼくは思う。
魔女狩りやいじめは、行き過ぎた群体アルゴリズムだ。
これを防ぐには、
人権や自由権を発明しなければならない。
線による思考、文化、文明の果てにたどりついた、
人権や自由権の先の考え方は、
いま多様性という概念へ進化しようとしている。
しかるに、ツイッターでは、
いまだに魔女狩りが続いて、
正義感に基づく晒しあげと炎上になっている。
正義感は間違った麻薬で、
「人は自分の行動を理屈で正当化する」
ことを利用しているに過ぎない。
たとえ間違ったことでも、「自分の中では正しい」ように、
自分だの理屈を通す。(それを屁理屈という)
魔女狩りは、みんな「ただしい」と信じてやっている。
群体のアルゴリズムの本能による行為だが、
それを正当化する理屈をつけているだけに過ぎない。
正当化する理屈の裏にある感情は、
「お前は我々と同じではない」である。
さて、本題。
「we are little zombies」の子供達は、
このような点の感情しかない、
魚とあまり変わらない生き物だった。
ツイッターと同じ、点の感情を吐いていた。
だから、
線である行動がなかったのだ。
群体のアルゴリズムは、仲間の維持と異分子の排除しか、
行動を生まない。
「みんなが行く方向になんとなく向かう」
ことしかできない。
タピオカのようにね。
群れから孤立して、別の方向に進む者だけが、
フロンティアを見つける。
昨日のゆるキーで何人かの技術者と話して、
ハッとしたのは、
「これじゃみんなと同じで意味がない」
と、自分のアイデアを棄却する習慣があることだ。
今や広告業界や映画業界で、
ほぼ失われたこの言葉を、
当たり前のようにキーボードを作りながら語っている。
ものづくりというのはこうしたものがベースだというのに。
魚の群れは、ついてくるだけだ。
あなたは、魚の群れを先導しなければならない。
先導して、
既に線として考え尽くされた、
無駄のない行程の、
極上の結論に導かなければならない。
ものを書く人間は、
だから魚ではない。
いま、魚がざわざわしているだけが、
ネットの現状ではないか。
「we are little zombies」はそれを射影しただけで、
それって模写しただけだってことだ。
何も作っていない。
だって結論は、
「これはここで終わりです。
普通の人生をめざす。それが一番むずいけど」
と、何も言ってないことに等しいからだ。
その現状に対して、
新しい結論Pを提出することが、
ものを作るということだからだ。
そのPを求める、キーボードメーカー達との違いよ。
Pの仮説を出し、実際に作ってみて、
反省会をし、改良アイデアP2を提出し、
あるいは別のアイデアQと合体させて、
…の繰り返しを日常にしている、メーカーなる人種との違いよ。
魚が魚の本音を吐いても、
何も起こらない。
ついて行く魚はいるよ。それだけ。
ちなみに、エンドロール後のカットで、
僕は爆笑してしまった。
「葬式の場面に戻り、カメラ目線でおしまい」だぜ?
「今までのこと(バンドを組んでヒットして、解散して、
大冒険してそれぞれの道へ進む)は全部嘘かもしれないよ?
葬式で見た幻想かもよ?」ってことでしょ?
どんだけ自分のストーリーに自信がないんだよ。
全部に「なんちゃって」「知らんけど」をつけて、
断言を避けるやつやんけ。
あほか。
2019年06月23日
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