2019年07月04日

代償

代償なしに、なにかを手に入れることが出来るだろうか?


僕は出来ないと思う。

何かを失うことでしか、何かを得ることは出来ない。
幸福保存の法則?
たぶんそうじゃなくて、
何かを自分の中に入れるには、
余白が必要だからだと思う。

何かを失うことは、
その余白を強制的に作ることなのではないだろうか?


人生では悲劇が起こる。

人が死ぬ。災害が起こる。
国が滅びようとする。
仕事がうまくいかない。
振られる。
自分を否定される。

それらはただの悲劇であり、
ただ耐えるだけだ。

物語の世界は違う。
「その悲劇は代償だったのだ」
と、悲劇に意味を持たせることが多い。

それは、リアルな世界で、
悲劇を悲劇のまま放置することが出来ない、
人の心の防衛装置、
すなわち「物語として世界の仕組みを説明する」
なのではないかと、
僕は考えている。


だから、
物語において悲劇や失うことは、
何かを得る代償になることが多い。

悲劇を悲劇のまま放置するのは、ただのリアルで詰まらない現実だ。
物語の世界では、
悲劇が起こらなかった場合より、
最終的に良くなることになっている。

そこにリアリティがあり、説得力があるようにするのが、
物語作家の仕事だと僕は思う。

そうでなければただの願望、
ただのご都合主義でしかないからね。


物語作家は、
ご都合主義や説得力不足と、
常に戦わなければならない。
悲劇に対して、
これは意味があったのだと、
意味を与えて安心させなければならない。

逆にいうと、
この反対は「私の人生に意味なんてない」だ。
(「we are little zombies」の結論。これゆえ、
この映画は物語ではない)


あなたの人生や僕の人生に意味があるかどうかは分からない。
しかし少なくとも物語においては、
あなたとも僕とも関係ない、
第三者であるところの、「主人公の人生に意味があった」
を描くことがルールだ。


第一者と第二者はどうでもいい。
第三者の人生の意味を描くことが物語であり、
第一者と第二者は、第三者のそれを見て、
「自分の人生もそうかもしれない」
と感銘を受けることが物語だ。(感情移入)




あなたの物語の主人公は、どんな代償を支払うのか。

片腕や片目を失う、というのは昔からあった代償だ。
命や生まれ変わりなんかは悪魔に払う代償だ。神も生贄を欲する。

信用が無くなったり、
職を追われたり、家が燃えたり、
村を追われたり、するかもしれない。

そして、だからこそ、ゴールに貴重なものを得る。

その理屈が一本通れば、
代償として機能する。



代償についてきちんと考えることは、
人生とはなにか、物語とはなにか、
人生と物語の似て非なる部分について考えることで、
結局は「面白い物語」について考えることだ。

なにを失い、なにを得る?
リストにしてみれば俯瞰できるよ。
他の名作でも分析してみると良い。
posted by おおおかとしひこ at 22:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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