プロットや大筋を考えることが、苦手な人がいる。
ディテールにこだわり、大局が見えない人がいる。
そういう人は、早回しで考えることが出来ないかもだ。
たとえば起こった出来事を誰かに話すとき、
起こった順番でしか話せない人がいる。
詰まらない所を省略して飛ばしたりできず、
ピークのあと、本当に起こったからと言って、
ダラダラ続けたりする。
それは、
「話している時間の速さを一定にしている」
ということだと考えるとわかるかもだ。
正確な再現だと、1分で起こったことを1分かけて話すべきだが、
話す時点でそこは圧縮されている。
しかしその速度を、下手な人は変えられないということ。
仮に、
「10分かけて起きたことを、1分で話す人」
というものを考えよう。
分速10と表記することにする。
話の下手な人は、この分速を変えられないのである。
話し上手な人は、この分速を脳内でギアチェンジすることができる。
分速10、分速60、逆に分速1秒、
などのようにだ。
それぞれ、
10分で起きたことを1分で話す、
60分で起きたことを1分で話す、
1秒で起きたことを1分かけて話す、
ということだ。
この変速機能がついてないから、
話し下手な人は、「ダラダラ話している」
という印象があるのである。
省略すべきは省略し、
面白いところは引き伸ばし、
が自在にできることが、
ストーリーテラーの条件だろう。
ところで、
それは、あった出来事だけでなく、
架空のストーリーについても同じである。
ある架空のストーリーを考えるとき、
「そのストーリーの起きている速度」でしか、
考えられない人がいる。
つまり、
キャラクターが喋って、
次にこうして、
次に別のキャラクターが発言して…
などのようにだ。
これしか出来ないなら、
一生プロットを作ることが出来ない、
というのが本題。
もしプロットが作ることが苦手だが、
出来上がったものが極上の作品になる才能の持ち主ならば、
以下は読まなくて良い。
しかし、
プロットと実際の作品に乖離があったり
(プロットでは面白いが作品はつまらない、
あるいはその逆、あるいはプロットも作品も詰まらない)、
プロットが苦手でマスターしたい人は、
読むべき内容だと思う。
つまり、
プロットを作るには、
脳内速度を上げ下げできるかどうか、
ということが関係しているのだ。
ある二時間のストーリーを1200文字プロットとして書く、
ということは、
二時間の速度を上げて、1200字の速度で再生しなければならない。
ペラ5枚程度ならそれをもう少し下げるべきだし、
400字ならもっと上げないといけない。
そして均等に速度設定するだけでなく、
重要なところはわかりやすく、
重要でないところは削るべきだ。
そしてその脳内速度をマックスまで上げたものが、
ログラインだということが、想像できるかと思う。
重要でないことを切り捨てるのに、
使い勝手の良い武器は、
「なんやかんやあって」だ。
ストーリーがはじまり、
なんやかんやあって○○に到着し、
なんやかんやあって敵を倒した、
などのように、
正しく抽出すれば、
プロットの形式に近づけられるだろう。
しかし正しく抽出できるとは限らない。
「桃から生まれた桃太郎が、
なんやかんやあって鬼を倒す」
は正しいプロットの抽出だが、
「桃太郎がなんやかんやあって、
猿犬雉を味方にする」
は正しいプロットの抽出ではない。
はじめと終わりが重要だということがわかるだろう。
つまり、
はじめと終わりはやや慎重に速度を落として、
途中はちょいちょい速度を上げて、
が、
正しいプロットの捉え方だといえよう。
そのように、
脳内速度をあげたり落としたりして、
自由に粒度をコントロールしていけるようになると、
大掴みに見たり、
細かく見たりを、
繰り返して考えられるようになってくる。
絵を描いているときは、
筆先の距離で見たり、
全体を下がって観察したりするものだ。
絵は空間に関することだから、
距離が大切だ。だから移動がよい。
物語は時間に関することだから、
早回し、スローモーション、逆回転、
などが、その重要なオペレーションだということがわかるだろう。
絵描きが話をかけないのは、
移動はできても、時間移動が苦手だからじゃないかな、
と僕は考えている。
だから僕は美大出を信用していないし、
アートディレクターに対して強い不信感がある。
(出来る人もいるから、盲目的に出来る、
と考えているわけではないだけのこと)
で、その先の話だが、
「それが起きている速度で、
それを書いていく」ことが、
実際の執筆だ。
こんどはなんやかんやあっては通じなくて、
なんやかんやあってのディテールを書くことが、
実際の執筆となってくる。
2019年06月27日
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