2019年06月27日

コンプレックスを武器にする

などとよく言う。

武器は間違った使い方をするべきではなく、
正しい使い方をしてはじめて武器になる。

どういうことだろうか。


強いコンプレックスは作家の条件であるとすら、僕はおもう。

普通のリア充は作家にならない。
プロデューサーにはなるが、書く者にはならない。

書くこととは、恐ろしく孤独で長い時間が必要で、
それに慣れている人しか達成できない、
一種の芸である。

その長い拷問の原動力(のひとつ)は、
コンプレックスであることは間違いない。
「劣った自分が、これを書くことで、
人並みになりたい。あまつさえ、称賛されたい」
という欲望は、ストレートに書く動機になる。
劣った自分ゆえの、逆転手段であると。

あるいは、コンプレックスを抱えていない人はいない。
人は、どこかしら誰かにはある部分で劣るから、
そこに劣等感を感じない人はいない。
コンプレックスを抱えた主人公が受けるのは、
そうした理由だ。

「俺は誰よりも勝っている」という傲慢な主人公は、物語にはおそらくいない。
(いるとしたら、典型的な悪役だ。
物語とは、最強自任する悪役を、
コンプレックスのある主人公が倒すことだと、
単純化することが出来る)

誰もが主人公に自己投影する。

それは主人公に、
コンプレックス、弱点、欲しくて得られないもの、
失ったもの、欠損、ネガティブな状況などがあるからだ。
(僕はそれを一言で「渇き」などと呼ぶ)

それは100%観客のものと同一である必要はない。
ある種の負の波動があればそれでよく、
しかもそれが「理解できる」であればよい。
それがわかるからこそ、
「俺とは違うコンプレックスだが、
それを理解したら、その気持ちは理解できる。
何故なら俺にもジャンルは違うが、
似たような気持があるからだ」
という気持ちになるからである。

これが感情移入の原動力になることは、
これまで議論してきたことなので、省略する。

だから、これを描くのがうまい人は、
感情移入の最初の部分、導入がうまいと考えられる。


で、本題。

コンプレックスを武器にするとは、
このような主人公の負の部分を描くことが上手い、
ということだと思う。

ところが、
武器にし切れていない人が、初心者にはたくさんいる。
典型的な誤りは、
「私のコンプレックスをそのまま描く」だ。

これは、
原初の感情「私のつらいところを分かってほしい」
というものを、そのまま書いてしまうことである。

誰か身近な人に宛てた告白ならとくにかまわない。
そうか、つらかったね、と慰めてくれるかもしれない。
ところが、作品というものは、
不特定多数に宛てたものである。

逆から見ればわかる。
知らない誰かほかの人が、
「私のコンプレックスはこんななんですよ」
と赤裸々に告白しても何も面白くない。

(興味ある人のそれは見るかもしれない。
そのジャンルを「暴露本」といい、
創作物語とは言わない。
暴露本のジャンルはドキュメンタリー、ノンフィクションであり、
フィクションとは言わない)

知らない人の真実なんてどうでもいい。
その人がなぜ他人に赤裸々に見せるのだ。
知らないオッサンやオバサンのものは見たくないものだ。

「私の裸は見てほしいのに、他人の醜い裸はNG」
というダブルスタンダードだ。

同じ原則でさばけないものは、
自分と他人をまったく別物扱いしてしまっていて、
主観と客観を区別できていない。
自分の主観を客観の立場から見れていない。
平たくいうと、露出狂、オナニーである。

コンプレックスを武器にしたと勘違いしている初心者は、
自分のコンプレックスをそのまま描いて、
「描き切った」などと考えがちだ。

それはあなたの自画像でしかなく、
物語ではないのだ。


物語とは、コンプレックスを持った主人公が、
ある事件の解決を通して、
そのコンプレックスを克服することだ。
(カタルシス)

そのコンプレックスが、
事件の解決を経て上手に昇華されなければ、
十分な物語とは言えない。

ここで、主人公のコンプレックスを、
自分と同じものにしてはいけない、
という原則が顔を出すわけである。

だって今自分が解決していないものを、
フィクションで解決できるわけではないではないか。
リアリティを持たずに解決する方法があるとすると、
ご都合主義で昇華することで、それは可能だ。
しかしそれは他人から見て、何も面白くない。
「俺ツエー」という詰まらないジャンルだと、それは言われる。

ここまで読めば、ここの読者は、
メアリースーの正体が、なんだかよくわかるだろう。
弱点があり、かまって欲しい主人公が、
なぜか他のキャラに好かれ、
なぜか最強認定して、
リアリティのない活躍をする。
(そして、それに対する代償は、
主人公が最後にするちっぽけな判断だけ)

それは、
「コンプレックスを解消できずに、深く抱えた作者が、
せめて嘘の世界の中では承認され、
最強でありたいと願うが、
そのコンプレックスを昇華する手段がわからず、
自分が強く反映されたキャラクターを、
なぜか最強にしてしまい、
なぜか承認されまくるキャラクターとして、
悦に入る」
ということなのだ。

これが他人から見て、
説得力のある、コンプレックスの昇華か。
否だ。


物語がなぜ面白いかというと、
コンプレックスの昇華が面白いからだ。
それが説得力があり、
リアリティがあり、
「自分とは違うものではあるが、
理解できるし、参考になるかもしれない」
と思うから、意味があるのだ。

つまり、
物語の面白さとは、
「(人によって様々に違う)コンプレックスの解消の仕方」
が描いてあるからだ、
と言える。

これは全ての面白い物語にあるとは限らない。
しかし、人の内面に刺さる奥深い物語には、
必ずある要素だと僕はおもう。



さて、ようやく本題にもどれる。

コンプレックスを武器にするとはどういうことか?


自分の深いコンプレックスを描くのが得意な人のことではない。
それは必ず昇華に失敗するだろう。
なぜなら、自分のコンプレックスに対して、
客観的になっていないからだ。

コンプレックスを武器に出来る人は、
客観的に自分のコンプレックスを見て、
それを自虐エンターテイメントではなく、
きちんとしたエンターテイメントにできる人のことだ。

それは、
「自分と異なるが、似たようなコンプレックスを持つ他人」を作り出し、
それが客観的に説得力があり、
リアリティをもって昇華するさまを、
上手に描けることをいう。

コンプレックスを持っていない人は、
このことが出来ないと思う。
コンプレックスの昇華を描くことが出来ないと思う。
そういう意味で、コンプレックスを抱えた人は、
スタートラインの資格がある。


コンプレックスを武器にするとは、
暗くて長い執筆時間を、孤独に生きるだけの原動力になることと、
それを客観的にみえるまで、
フィクション世界に別のものに転換して、
投射出来ることの、
大きく二つのことを言うと、
僕は考えている。

前者は分るし、できると思う。
後者は、なかなか客観的になることは難しい。


とくに、これを手軽にできる、
SNSが発達してしまった。
いいね乞食たちは、今日もいいねがもらえる写真を捜して、
街をさまよっている。

(昨日衝撃的だったのは、デザートにタピオカが出ると聞いた女子が、
「タピオカ欲しいー。いいねがもらえる写真が撮れるからー」
と言っていたことだ。
いいねがもらえればなんでも良くて、
キャッサバと練乳は欲しくないのだという)

実際、すぐれたフィクションを作り得なくても、
いいねの承認を得ることは可能だ。

あなたは、自分のコンプレックスを、
いいねと承認されることで数日満足するのか。
それとも、
ある人の(自分とは異なる)コンプレックスを、
事件の解決を通して、
二度とそのコンプレックスに陥らないようになるまでの、
人生の昇華を描きたいのか。

後者の人が、
物語を書くのに向いている。

前者ならば、
まだコンプレックスを武器に出来ていない。


武器は正しく使わないと、
自分を傷つけることになる。

メアリースーを書いた者に、
「それはお前の甘えではないか」
と指摘すると、ひどく傷つくだろう。
それは、俺が傷つけたのではない。
武器の誤った使い方が傷つけたのだ。


包丁で人を刺す訓練をしたまえ。
武器の使い方を、学ぶことが出来る。
自分に刺さない太刀さばきを学ぶことができるだろう。
日本刀はよく足を切ってしまったり、
腕を滑らせて切ってしまうことがあるという。


コンプレックスという武器を誤って使うと、
効果がないばかりか、
自分自身をひどく傷つけることになるだろう。

間違って自分を刺してしまい、
二度と書かなくなる人が出てくることは、
十分に考えられる。

それはそこまでの弱い人間だったのだ、
と僕は諦めるが、
そこにこういうメカニズムがあることは、
解説しておくべきだと思ったので、書いてみた。



最近の似非クリエイターは、
みんなコンプレックスを、間違った武器にしている。
そんなやつは俺がぶった切る。
邪魔だ。
勝手に傷ついて死ね。

間違っていたと思ったら、立ち上がり正せばよい。
posted by おおおかとしひこ at 17:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。