などとよく言う。
武器は間違った使い方をするべきではなく、
正しい使い方をしてはじめて武器になる。
どういうことだろうか。
強いコンプレックスは作家の条件であるとすら、僕はおもう。
普通のリア充は作家にならない。
プロデューサーにはなるが、書く者にはならない。
書くこととは、恐ろしく孤独で長い時間が必要で、
それに慣れている人しか達成できない、
一種の芸である。
その長い拷問の原動力(のひとつ)は、
コンプレックスであることは間違いない。
「劣った自分が、これを書くことで、
人並みになりたい。あまつさえ、称賛されたい」
という欲望は、ストレートに書く動機になる。
劣った自分ゆえの、逆転手段であると。
あるいは、コンプレックスを抱えていない人はいない。
人は、どこかしら誰かにはある部分で劣るから、
そこに劣等感を感じない人はいない。
コンプレックスを抱えた主人公が受けるのは、
そうした理由だ。
「俺は誰よりも勝っている」という傲慢な主人公は、物語にはおそらくいない。
(いるとしたら、典型的な悪役だ。
物語とは、最強自任する悪役を、
コンプレックスのある主人公が倒すことだと、
単純化することが出来る)
誰もが主人公に自己投影する。
それは主人公に、
コンプレックス、弱点、欲しくて得られないもの、
失ったもの、欠損、ネガティブな状況などがあるからだ。
(僕はそれを一言で「渇き」などと呼ぶ)
それは100%観客のものと同一である必要はない。
ある種の負の波動があればそれでよく、
しかもそれが「理解できる」であればよい。
それがわかるからこそ、
「俺とは違うコンプレックスだが、
それを理解したら、その気持ちは理解できる。
何故なら俺にもジャンルは違うが、
似たような気持があるからだ」
という気持ちになるからである。
これが感情移入の原動力になることは、
これまで議論してきたことなので、省略する。
だから、これを描くのがうまい人は、
感情移入の最初の部分、導入がうまいと考えられる。
で、本題。
コンプレックスを武器にするとは、
このような主人公の負の部分を描くことが上手い、
ということだと思う。
ところが、
武器にし切れていない人が、初心者にはたくさんいる。
典型的な誤りは、
「私のコンプレックスをそのまま描く」だ。
これは、
原初の感情「私のつらいところを分かってほしい」
というものを、そのまま書いてしまうことである。
誰か身近な人に宛てた告白ならとくにかまわない。
そうか、つらかったね、と慰めてくれるかもしれない。
ところが、作品というものは、
不特定多数に宛てたものである。
逆から見ればわかる。
知らない誰かほかの人が、
「私のコンプレックスはこんななんですよ」
と赤裸々に告白しても何も面白くない。
(興味ある人のそれは見るかもしれない。
そのジャンルを「暴露本」といい、
創作物語とは言わない。
暴露本のジャンルはドキュメンタリー、ノンフィクションであり、
フィクションとは言わない)
知らない人の真実なんてどうでもいい。
その人がなぜ他人に赤裸々に見せるのだ。
知らないオッサンやオバサンのものは見たくないものだ。
「私の裸は見てほしいのに、他人の醜い裸はNG」
というダブルスタンダードだ。
同じ原則でさばけないものは、
自分と他人をまったく別物扱いしてしまっていて、
主観と客観を区別できていない。
自分の主観を客観の立場から見れていない。
平たくいうと、露出狂、オナニーである。
コンプレックスを武器にしたと勘違いしている初心者は、
自分のコンプレックスをそのまま描いて、
「描き切った」などと考えがちだ。
それはあなたの自画像でしかなく、
物語ではないのだ。
物語とは、コンプレックスを持った主人公が、
ある事件の解決を通して、
そのコンプレックスを克服することだ。
(カタルシス)
そのコンプレックスが、
事件の解決を経て上手に昇華されなければ、
十分な物語とは言えない。
ここで、主人公のコンプレックスを、
自分と同じものにしてはいけない、
という原則が顔を出すわけである。
だって今自分が解決していないものを、
フィクションで解決できるわけではないではないか。
リアリティを持たずに解決する方法があるとすると、
ご都合主義で昇華することで、それは可能だ。
しかしそれは他人から見て、何も面白くない。
「俺ツエー」という詰まらないジャンルだと、それは言われる。
ここまで読めば、ここの読者は、
メアリースーの正体が、なんだかよくわかるだろう。
弱点があり、かまって欲しい主人公が、
なぜか他のキャラに好かれ、
なぜか最強認定して、
リアリティのない活躍をする。
(そして、それに対する代償は、
主人公が最後にするちっぽけな判断だけ)
それは、
「コンプレックスを解消できずに、深く抱えた作者が、
せめて嘘の世界の中では承認され、
最強でありたいと願うが、
そのコンプレックスを昇華する手段がわからず、
自分が強く反映されたキャラクターを、
なぜか最強にしてしまい、
なぜか承認されまくるキャラクターとして、
悦に入る」
ということなのだ。
これが他人から見て、
説得力のある、コンプレックスの昇華か。
否だ。
物語がなぜ面白いかというと、
コンプレックスの昇華が面白いからだ。
それが説得力があり、
リアリティがあり、
「自分とは違うものではあるが、
理解できるし、参考になるかもしれない」
と思うから、意味があるのだ。
つまり、
物語の面白さとは、
「(人によって様々に違う)コンプレックスの解消の仕方」
が描いてあるからだ、
と言える。
これは全ての面白い物語にあるとは限らない。
しかし、人の内面に刺さる奥深い物語には、
必ずある要素だと僕はおもう。
さて、ようやく本題にもどれる。
コンプレックスを武器にするとはどういうことか?
自分の深いコンプレックスを描くのが得意な人のことではない。
それは必ず昇華に失敗するだろう。
なぜなら、自分のコンプレックスに対して、
客観的になっていないからだ。
コンプレックスを武器に出来る人は、
客観的に自分のコンプレックスを見て、
それを自虐エンターテイメントではなく、
きちんとしたエンターテイメントにできる人のことだ。
それは、
「自分と異なるが、似たようなコンプレックスを持つ他人」を作り出し、
それが客観的に説得力があり、
リアリティをもって昇華するさまを、
上手に描けることをいう。
コンプレックスを持っていない人は、
このことが出来ないと思う。
コンプレックスの昇華を描くことが出来ないと思う。
そういう意味で、コンプレックスを抱えた人は、
スタートラインの資格がある。
コンプレックスを武器にするとは、
暗くて長い執筆時間を、孤独に生きるだけの原動力になることと、
それを客観的にみえるまで、
フィクション世界に別のものに転換して、
投射出来ることの、
大きく二つのことを言うと、
僕は考えている。
前者は分るし、できると思う。
後者は、なかなか客観的になることは難しい。
とくに、これを手軽にできる、
SNSが発達してしまった。
いいね乞食たちは、今日もいいねがもらえる写真を捜して、
街をさまよっている。
(昨日衝撃的だったのは、デザートにタピオカが出ると聞いた女子が、
「タピオカ欲しいー。いいねがもらえる写真が撮れるからー」
と言っていたことだ。
いいねがもらえればなんでも良くて、
キャッサバと練乳は欲しくないのだという)
実際、すぐれたフィクションを作り得なくても、
いいねの承認を得ることは可能だ。
あなたは、自分のコンプレックスを、
いいねと承認されることで数日満足するのか。
それとも、
ある人の(自分とは異なる)コンプレックスを、
事件の解決を通して、
二度とそのコンプレックスに陥らないようになるまでの、
人生の昇華を描きたいのか。
後者の人が、
物語を書くのに向いている。
前者ならば、
まだコンプレックスを武器に出来ていない。
武器は正しく使わないと、
自分を傷つけることになる。
メアリースーを書いた者に、
「それはお前の甘えではないか」
と指摘すると、ひどく傷つくだろう。
それは、俺が傷つけたのではない。
武器の誤った使い方が傷つけたのだ。
包丁で人を刺す訓練をしたまえ。
武器の使い方を、学ぶことが出来る。
自分に刺さない太刀さばきを学ぶことができるだろう。
日本刀はよく足を切ってしまったり、
腕を滑らせて切ってしまうことがあるという。
コンプレックスという武器を誤って使うと、
効果がないばかりか、
自分自身をひどく傷つけることになるだろう。
間違って自分を刺してしまい、
二度と書かなくなる人が出てくることは、
十分に考えられる。
それはそこまでの弱い人間だったのだ、
と僕は諦めるが、
そこにこういうメカニズムがあることは、
解説しておくべきだと思ったので、書いてみた。
最近の似非クリエイターは、
みんなコンプレックスを、間違った武器にしている。
そんなやつは俺がぶった切る。
邪魔だ。
勝手に傷ついて死ね。
間違っていたと思ったら、立ち上がり正せばよい。
2019年06月27日
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