僕は映画や映像はすべてものづくりだと考えている。
それがサービス業に成り下がった(下がったというのは僕から見て)
のが、産業衰退の原因のひとつだと考えられる。
ものづくりとは、みんなの幸せになるものをつくることをいう。
幸せとは客観的で、ある種の「見方」から成り立っている。
つまり「こういうものがあると、皆が幸せになる(はず)」
という考え方の元に作られている。
実際に効果があり、よいものは、人気になる。
そこに主観は入らない。客観だ。
一方サービス業は、主観によってなされる。
「その人」を接待できればそれでよい。
その人の主観を満足させられれば、
サービスは終わりだ。
その人が偏っていて、一般的ではない場合もある。
そういう人に、一般的なサービスは意味がない。
偏っている、一般的でないサービスが有効な時がおおい。
サービス業とは、その人が一般的か、そうじゃないかを早めに見極め、
その人に応じたきめ細かいものを、
早めに提供できるかが肝心だ。
つまり、サービス業は、「俺をわかっているな」が正解で、
ものづくりは、「みんなが喜ぶもの」が正解だ。
つまり、両者が提供するものには差がある。
ものづくりのほうが、間口が広く、
サービス業のほうが、最終的に提供されるものは間口が狭い。
逆だと問題がある。
ものづくりで間口が狭いものはニッチとされて、
売れたとしても多くの人を幸せに出来ない。
サービス業で、ふつうの人には受けるからといって、
通常コースを提供しても、
「俺には満足がいかない。それどころか、特別なことを何もしてくれない」
という不満があるだろう。
つまり、僕は、上がりが真逆になると考えている。
映画や映像産業が、僕は衰退していると考えている。
内容がどんどん詰まらなくなっている。
それは、サービス業化が原因ではないか、
と愚考するわけだ。
たとえば、
いま映画配給会社は、
「何が受けるか考えて提供する」という思考パターンに陥っている。
つまり観客へのサービス業だ。
こういうものが受けるよね、しかし全員は満足できないから、
こういう人はこういうのが好きでしょ、
と観客を細分化して、
それぞれのクラスタに受けるものを提供する、
サービス業のようになっている。
これは、ある種のクラスタを満足させることには役に立つ手法ではあるが、
そのクラスタ外を満足させられないものだ。
ほんとうに欲しいのは、
「皆が満足する、新しいもの」であるべきで、
「ある特定の層が満足する、すでにわかっているもの」ではない。
後者は確認しにいくだけで、
前者は歴史を更新する。
あるいは、広告の現場でも、
長らくこの空気が支配している。
「クライアントの〇〇さんを満足させるものをつくろう」
などと考える輩が増えた。
クライアント内での政治、接待に、
広告作品が使われるようになっている。
これはおかしい。
クライアントが反対したとしても、
日本人一億が満足するものをつくるべきだ。
なぜならクライアントは、そのものの価値を100%理解していないからだ。
僕はクライアントは評論家ではない、と常々言っている。
すべての映像表現を理解し、歴史的価値を判定し、
いまここに出すべきものである、
という価値を理解しているわけではない。
目的があり、手段に関しては理解しているわけではない。
だからこそ、映像の専門家に依頼しにくるはずだ。
しかし、サービス業のやつが、
「あなた方が思う映像をつくりますよ」
と営業するため、
クライアントは何億も出して、
「子供が考えた程度の作品内容」がゴールになってしまう。
本来、専門家が新しく考えた、歴史が動くべきものが、
サービスの美名によって潰されているわけだ。
これは、芸術家に対してあるべきスポンサーの立場ではない。
スポンサーは、芸術家のやることを100%理解していないもので、
作品を気に行ったら、自由にやらせるべきだ。
そうでない限り、スポンサーの理解が上限になってしまい、
それ以上の作品が生まれる余地がないではないか。
スポンサーの理解の範囲内でつくるには芸術家は必要ない。
芸術家とは、誰もなしえなかった、
新しいアイデアを思いつく者のことである。
いま、映像業界は、
サービス業だ。
上役が思いついた、ふるくさい、尖っていない、
歴史にも残らない、子供のような素人のセンスのものを、
実現するためのサービス業に過ぎない。
それを満足させるために、
子供クリエイターが、子供みたいなコンテをつくっている。
ほんとうに新しいものづくりをしようとすれば、
それを批判して排斥する必要がある。
それらの無駄なところをなくして、
新しい成分で満たすことが、時代を前にすすめることだ。
しかし、サービス業ではそれはご法度だ。
サービスする相手の心証が悪くなるからだ。
僕は詰まらないものは詰まらないという。
嘘はつかない。
それは、時代を前にすすめるための新しいものづくりをする上で、
当然だ。
そうでない限り、詰まらないものを却下できないからだ。
しかしこれはサービス業界には都合がわるい。
ということで、僕はいま干されているのだろう。
「評価する」という、理系用語がある。
ほめるとか、素晴らしいと思う、という日本語とは違い、
これはestimateの訳語で、
それがよいものかどうか分析して、
よいところはどこか、悪いところはどこかを腑分けして、
どうすればさらに良くなるか、考える、
というような意味だ。
「試作品を評価する」というような言い方をする。
テストしてみて、結果を言語化する、というようなことか。
あるいは、この論文の評価会をしよう、などという。
よい、わるい、と旗を揚げることが評価会ではない。
腑分けして、さらによいものを目指すにはどうしたらいいかを
「議論する」場が評価の場である。
僕は、だから、映像づくりにおいて、
つねに評価する。
自分のものでもそうだし、他人のものでもそうだ。
痛いところは突くべきだ。
だって欠点ならそれを自覚して、再び直せば、
納品前にもっとよくなるからだ。
納品してしまったものについては、
よくないものは棄却して、悪がはびこらないように、
世界を明るくするべきだ。
(問題は、空いたスペースに、良いものが入ってこないことだが)
この評価は、主観的であってはならない。
理系なら数値評価が可能だが、
数値で評価できないものを、文学という。
だから、なるべく言葉で客観的に語るべきであって、
主観を言ってはサービス業と同じになってしまう。
僕は、クライアントが間違っていたら、間違いだということにしている。
それが心証が悪くなると安易に考える、サービス業の人から評判が悪い。
しかし、クライアントがものづくりの人だと、
悪いものは悪いといわないと、
不良品を世の中に出すことになり、
評判が落ち、売れず、信用もなくなるということを知っているから、
そういった人からは、信頼されることが多かった。
しかしクライアントの中から、
ものづくりの人が減ってきたことを実感している。
工場を海外に移転し、すべてアウトソーシングした結果、
ものづくりをする人がいなくなったのだろう。
で、サービス業でちんこを舐められた人が、
うろうろする世界になってしまったということだ。
結果は、「センスの悪いCMばかりになり、誰もテレビを見なくなる」だ。
広告で起きていることは、映画でも起きている。
何をどう作るか、ということを決めるのはプロデューサーだが、
その人がセンスがない場合、
つまりものづくりの人として能力がない場合、
監督や脚本家に外注することになる。
彼らがどんなに名作を書いてきても、
それがよいと思わないセンスだとしたら、
彼らの主張を理解しない。
で、「私を否定しなかったやつをかわいがる」ということが発生する。
つまり、彼に呼ばれる監督は、サービス業の監督になる。
彼をよろこばせることが上手い人になる。
こうして、あとは詰まらない邦画が出来るわけだ。
で、「すべての人に新しく見える、歴史的価値を持つ映画」
などつくられず、
「ある一定層で商売できる、すでに見たもので保証されたもの」
が作られ続けることになる訳である。
俺はサービスなんてしない。
ものづくりをする。
ついてこれない奴と、仕事をするつもりはない。
それで、映画が出来るかどうかはわからない。
出来ないなら、仕組みが間違っているから、
新しい仕組みを作れないかと考えている。
俺が一番面白くて、才能があるとは言っていない。
皆が「理系の意味で評価」しあえる場が、
ものづくりとして健全である、
といっているだけのことである。
そうでなければ、
永遠に進歩などない。
ちなみに、自作キーボードの世界は、
完全にそういったものづくりの世界で、
マイナスポイントを指摘することは、
悪口ではなく、改善点を指摘するアドバイスだ。
ありがたいのである。
僕はそこで精神の平衡を保っているのかもしれない。
僕は、サービス業の人を、たいへんだとは思うが、
ものづくりより一段下に見ている。
新しいものをつくり、人類を客観的に進歩させる人のほうが、
たかが数人のせまい範囲の主観を満足させることより、
偉大だとおもっている。
そう考えない人が、いま牛耳っているのではないかね。
だから日本は衰退し、
上級国民だけがおいしい目にあっているのだろう。
東洋経済オンライン「日本人はなぜ「論理思考が壊滅的に苦手」なのか」
https://toyokeizai.net/articles/-/288272
アトキンソン氏の他の記事も読みました。少しでも論理的に話し合える人を増やしていこうと思います。
記事読みました。
バカなマネジメントが変わるわけないだろうことは、
今日本の会社にいれば誰でも感じることです。
何を言っても変わらないだろうから、
彼らを倒す新しい会社を作ることが、
我々の仕事ではないかと最近は考えるようになりました。
社長の仕事がよくわからないので、
うっかり会社を作るわけにはいかないのですが。