2019年07月01日

恋ひたる辻占煎餅

ツイッターで見て爆笑し、いずれ泣いてしまった。
ちなみにフルバージョンを貼っておく。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26009297

なぜこんなに心に刺さるのだろう。
古文は「身もふたもない」からではないかと思う。


表現は進化してきた。
そのままを言うことから、
婉曲表現や雅な表現へ。

日本の80年代は、サビの英語への転換であった。
日本語なんてダセエよ、英語の方がカッコいい、
という歴史があり、
今でもその傾向は続いている。
演歌的な「昔の世界」からの脱却こそが、
最新を更新することであった。

ところが。

英語が広まるに至って、
「英語も言語に過ぎない」ということがバレてきた。
カッコいいのは慣れていなかっただけで、
きちんと英語を学べば、
「ただの人の話す言葉である」ということがバレてきた。

勿論英語の中での素晴らしい表現は当然ある。
だが日本人にとって、
「必要以上に下駄を履く」という機能がなくなったのだ。
だって80年代はtogetherとかforeverとか付けとけば、
それだけでカッコよかったんだぜ。
英字新聞はそれが存在するだけでカッコよかったんだ。
ただの新聞なのに。

ちなみに、英語がその下駄力を失ったので、
一時期、フランス語やスペイン語、
中二にはドイツ語やロシア語が、
そのような下駄力があるとされた時代もある。
新製品のネーミングには、いまだにこれが影を落としているよね。


こうした、
外国語によるカッコつけの歴史が、
歌詞の歴史でもあると思う。


で、本題。

「恋ひたる辻占煎餅」は、
それらの外国語によるナチュラルにカッコつけた何かを、
身もふたもないものにする。
だから面白い。

あ!は!れ!ってなんやねん、
来たれ童ってカモンベイビーかよ、
辻占煎餅って、
なんて笑っているうちに、
いつしか我々は、
「恋する人が振り向いてくれないので、
せめて占いでいい結果が出たい。
そうすればもっと自信がつくのに」
という切ない恋心に感情移入してしまう。

身もふたもない感情がそこに書いてあるからだ。

それをかっこつけずに描いてあるからだ。


ことばには、
ガワの機能と中身の機能がある。

ガワを取り去って、
身もふたもないものにしたら、
中身が身もふたもなく出てきて、
あまりにもストレートで切なくなった、
というからくりだ。

案外秋元康の歌詞いいじゃないか、
なんて思ってしまう。


時代を超える言葉というのは、
つまりは中身がどういうものかで決まる。
その時代でヒットするかは、
その時代のガワとして、いいものかで決まる。


この感情は誰もが共有できる原始的な感情だ。
おそらく時代が変わっても変化はしない、だれでもわかる感情だ。
だから感情移入できるのだ。



しかも原曲よりいい言葉づかいのような気がする。
訳した人は天才である。
歌手もいいね。指原よりうまい。
posted by おおおかとしひこ at 14:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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