2019年07月01日

嘘のレベル

物語は嘘であるが、
その嘘の粒度というか、階層を決めておくこと。
そうでないと混乱する。


分り易く、五つのレベルで考える。
レベルといっているのは、高い低いとかではなく、
層の意味なので注意。

1 死んだらそれまで
2 死んでもひとつだけ生き返らせる手段がある
3 生き返らせることは出来ないが、魂と通信できる
4 生き返らせることも、魂と通信することも自由
5 死ぬけど、たいてい生き返る

フィクションの世界には、色々な世界観があり、
色々なレベルで死や死後について扱う。

1は我々と同様の世界、
2はたとえばドラゴンボールやタイムマシン、
3はスターウォーズとか、
4はドラゴンボールの後半とか、
5は多くの少年漫画かな。
(少年漫画の多くが5を選択する中で、
「風魔の小次郎」は1を選んだ作品だ。
だから他と違った魅力があると思う)

ここからが重要なことだが、
一度どれかを決めたら、
途中で他のものになるべきではない。
また、それは比較的作品の初期に提示するべきである。


どんなにコメディもので、
人が死ななかったり生き返ってもおかしくない世界に見えても、
1という世界なら、1を初期のほうに提示しておくべきだ。
作品の楽しみ方は初期のほうに提示しておかないと、
何を前提として楽しまないといけないか、
観客がわからなくなるからである。

また、途中で変更してもいけない。
「これ前提の筈なのに、途中で変わるのかよ」は、
失望の原因である。
ドラゴンボールをわざと例に挙げたが、
フリーザとかそのへんまでは面白かったのに、
ブウ以降面白く無くなったイメージがある。
それは、毎回ドラゴンボールで生き返らせる話に、
そろそろ飽きてきて、
死んだあとに登場させてもいいだろ、
みたいに、ルールが途中で変わったように感じたからだ。

死ぬことの意味や意義が変質してしまったから、
それを争うバトルの重みや緊張感が変わってしまったのだ。
悟空に天使のわっかがついてから、
悟空には魅力がなくなってしまったように思う。
悟飯や悟天に魅力がないのも、
「どの世界観で楽しめばいいかあやふやになっている」からである。
悟空のように死んでもかえって来れるなら、
それを前提としたバトルになるはずだが、
旧態依然とした2前提で闘うから、
何をどう予測していいかわからなくなるのだ。
(楽しみとは予測のことだ)

明日から重力が変わってしまうとしたら、
まったく違う世界になるだろう。
それくらい、世界の基礎設定を揺るがせてはならない。
重力が日々変わる世界なら、
それ前提で話が組み立てられるだろうし、
重力が変わらない世界なら、
それ前提で話が組み立てられ、急に重力が変動する筈はない。


リアリティ寄りの話かと思ったら、案外ファンタジーだったり、
コメディ寄りの話かと思ったら、案外リアリティ寄りの話だったり、
途中でぶれたり、最初の想定と違った方向性にいってしまったら、
面白くなくなる。
もちろん、狙いでおどろきを作るためなら、
それはあり得るかもしれない。
しかしそれが確実で一定だったときの安心感にくらべて、
面白く無くなっているのなら、
それはやる意味がないのだ。

もちろん、ずっとミスリードさせておいて、
最後に逆転させる叙述トリックのような例もあるが、
それは映像では難しいかもしれない。
なぜなら、
映像は、すべてのものが映っているからで、
「見たその世界を前提とする」
の拘束力が強いからだ。

つまり、最初に「見た」ものが、
最後まで原則つらぬかれているべきだ。


嘘のレベルを定義すること。
そしてそのレベルで貫くこと。

たとえば最初に生き返った人がいるのに、
途中で生き返らなくなるなら、何かしらの理由が必要だ。
(とくに言わない限りは、1が前提。
これをデフォルト、暗黙値という)

生き死にを例にしたが、
他のすべてのことは同様だ。
フィクションとはそうやって大枠のルールを決めて、
その中で知恵比べをするゲームだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:45| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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