2019年07月01日

ものを作ったことがない奴の考えたものづくり

腹が立ち、爆笑し、悲しくなった。
こうやってものが作られるという誤解が広まっている。
https://mobile.twitter.com/manabu_hirata/status/1143079005119119365

裁縫とか料理とか米作りとか道具作りとか、
してみたらいいよ。
日本の悲劇は、便利になった生活の代償として、
ものづくりの経験を深くしていないことではないか?


どんなものでも共通だけれど、
ものづくりにはコンセプトがある。

「これはこういうものである」
に答える短い概念であり、
日本語で説明できるものだ。
(説明できないのはコンセプトとは言わない)

このように楽しいものだ、
このように便利なものだ、
このように素敵なものだ、
という「最終的に人が受け取るもの」
をそう呼ぶ。

ああ、これはこういうものだったのだな、
というもののことだ。
(映画でいうとログラインではない。
ログラインはストーリー部門だけに限定された骨格のことで、
コンセプトはもっと上位のレベルの話である)

それは、
「ほかに似ているものがある」から「オリジナリティ溢れる」
まで、グラデーションがある。

まずそこを煮詰める。
生活必需品をのぞいて、
クリエイティブなものは、
新しくないものは作る意味がなく、
どこが新しいのか、何が歴史を更新するかを問う。
(生活必需品、たとえば料理ならば、
「こういう美味しさを目指す」がコンセプト)

コンセプトを一回固めたら、
動かしてはいけない。
これは絶対のルールだ。

守られないととんでもないことになる。
東京オリンピックは
「震災復興のための福島と東京共同開催、
かつ史上最安値のエコオリンピック」
というコンセプトだったが、
作る過程において福島はなくなり、
予算は2桁上がった。
完全に実行はガタガタで、もう誰も成功など期待していない。
早く終わってくれしか見ていない。
これを爆死という。

爆死は、コンセプトを守らず、
途中変更することが主な原因だ。
途中でコンセプトを変更したいならば、
捨てたほうがマシだ。

「ラーメンを作ろうと思ったが、
麺が伸びたので焼きそばに変更」
した時何が起こるか想像すればわかる。
スープを再利用するために煮詰めて酷いことになり、
その味とソースは喧嘩して、
新しい野菜が投入されたが、
味がさらにバラバラになるだろう。
東京オリンピックと同じだ。

こういう時原則を守るならば、
「ラーメンを捨てて、一から焼きそばを作る」
ほうが幸せになれるのは、
料理をしたことのある人はわかるだろう。

ラーメンになる予定だった焼きそばを食べても、
まずいだけだ。誰も幸せになれない。
予算は、ラーメン半分と焼きそば一つ分だろうか?
僕は違うと思う。
誤魔化すための予算が余計にかかると思う。
そして何より、時間の方がかかる。

ラーメンなら数時間と1000円程度だが、
東京オリンピックは数百億無駄に出て行っている。
まさか競技場作って終わりじゃないから、
まだ出て行くだろう。

コンセプトが変わったならば、
実はトップの判断はたったひとつで、
「やめてそっちを一から進めよう」だ。

「ここまで出来たんだから、
これを再利用しながら何か出来ないかな」は、
ただの物知らずだ。
あるいは、途中変更で苦しい目にしかあわず、
出来上がりも微妙でしかなく、
苦い目にあったことのない人の考えだ。

それを知りたかったら、
ラーメンを途中で焼きそばにつくりかえてみたまえ。
あるいは、
畑を耕してから、途中で水田に変更してみよう。
あるいは、セーターを編んでから途中でカバンにしよう。
あるいは、書道を途中まで書いて、
後半から変更してみよう。

素晴らしいものが出来るだろうか?
出来るわけがないんだ。

ものづくりとは、
コンセプトから起こした設計図があり、
設計図の通りに実装されたうえで、
さらに遊びがあると、
素晴らしいものになる。


ちなみにあるべき設計図のあり方は、
「どのような実装だとしても、
これが守られれば、
コンセプトの良さを崩すことはない」
ようなもののことである。

脚本に例えれば、
ここがプロットにあたり、
実装とは実際の文章のことだ。
(ログラインはプロットの骨子)

同じプロットでも、
執筆者が違えば、
異なった味わいの物語になるだろう。
しかしそのストーリー自体の持つ意味は同一だ。

複数のシェフが同一のレシピに基づいてラーメンを作れば、
それぞれに味わいは違うが、
同一のラーメン的幸せは得られる。


繰り返すが、
途中変更可能なのは、
実装だけだ。
コンセプトとその実装前提の設計図は、
いじられるべきではない。

「多少いじっても大丈夫」と素人は思うだろう。
じゃあラーメンのスープに、
途中でうんこを入れてみればいいさ。


繰り返すが、
これはものづくりの常識だ。

料理でも、イベントでも、
道具作りでも、農業でも、
手芸でも、都市計画でもだ。


さて本題。

どうしてこういうことを考えるのだろう?
小説は、作者と編集者がつくるものだ。

それでいいのが出来ないから、
集合知を借りようというのだろうか?
その集合知を妥当と判断するのはだれか?
それも集合知まかせか?

集合知の代表、Wikiは、
カオスになっているものと、
うまくまとまっているものがある。
後者は、責任ある執筆者がいて、
ごく小さな情報を集合知に頼っているだけだ。

集合知はものをカオスにかき混ぜることにしか役に立たない。
エントロピーは上がる一方だ。

クリエイティブとかものづくりは、
エントロピーを下げることだ。
エントロピー増大則に逆らうことが、
ものづくりの本質だ。



こんなクソアイデアを思いつくほど、
日本はものづくりの常識が失われたのだろうか?

料理で失敗して、裁縫で失敗して、
絵を描いて失敗して、書道で失敗して、
作文で失敗して、イベントで失敗すれば、
その反省ができるだろう。

ゴミの意見は才能を潰す。
本物の天才を育てる方法を考えろ。

小学校からやりなおせ。


ちなみに、こんな感じのやりとりが、
映画会社や広告会社で行われていたりする。
寒気がする。

クリエイティブとは、
「たった1人の頭脳によって考えられた形の、
考えぬかれたなにか」
だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:23| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とても失礼な物言いになってしまいますけど、本当に良いものに触れたことがないので想像ができず、
月額100円の集合知でブラッシュアップされる程度のものをこそ高品質だと信じ込んでしまっているのでは無いでしょうか

今のネットでは映像、画像、文章など色々なものが質はともかくタダで大量に手に入るので、
そういったものに触れ続けた結果作品に対するハードルが下がりきってしまったように感じます
スーパーの試食品でお腹いっぱいになって、たまに行くファミレスで満足して、それ以上のお店は眼中にない、みたいな

まあかく言う自分がそういう状態なのですが。良くないなーと思いつつブログ拝見してます
Posted by 匿名希望 at 2019年07月01日 23:38
>匿名希望さんコメントありがとうございます。

スーパーの試食品もね、自分で作ってみればいいと思うんです。
米も肉も自分で作ってみればいいと思うんです。
ついでに陶器もろくろ回してつくりますか。
海原雄山の気持ちが、ちょっとわかってくるというもんです。

安定してるけど品質は最低のものを食べる生活か、
飢え死にするかも知れないけど本物を食える生活か。
原始時代には戻れないでしょうが、
たまには(月1?週3?)原始時代に戻ると、
「月額100円」が詐欺まがいだということが、
理解できるようになるでしょうね。

才能のない作家と、俺たちが育ててやるという有象無象を結びつける、
マッチングビジネスではないか、と深読みしてしまいますわ。
後に残るのは焼け野原。
こういうのを真の悪党というのです。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年07月02日 02:08
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