2019年07月08日

設定をたくさん書いておくのは、ストーリーを思いつくため

設定というのは、ストーリーの畑のようなものだ。
そこからいつか芽が出てストーリーに成長する。
途中で枯れてダメになるやつもあれば、
枝を広げて花を咲かせ、結実するものもある。

設定を大目に作ることは悪いことではない。
畑は広いほうがいい。


どんな芽が出てくるかわからないからこそ、
設定は大目に作っておくとよい。

慣れれば、
「これくらいの話にはこれくらいの設定を用意しとけばよい」
なんてことが見積もれるようになる。
「今回は多いから、ここはごっそり捨てよう」
なんてことも判断できるようになる。
「捨てる部分はどっかで再利用したろ」も稀によくある。

ストーリーには、必要十分な設定がベストだが、
まだどんなストーリーか出来ていない状態の時は、
設定は大目にあったほうが安心だ。

なぜなら、ストーリーというのは設定が連れてくるからだ。


大抵設定の隅をほじっているときに、
ストーリーの芽がでることが多いと僕は思う。
大まかな設定の時には、
ストーリーはあんまり具体的にならなくて、
細かい設定ができた時に、
これがこうなると面白いぞ、
なんて思いついたりすることはよくある。

頭の中で動かすときに、
設定が細かいほうがイメージしやすいのだろう。

「主人公とヒロインが恋をする」
ぐらいだと全くストーリーが思いつかないが、
「自信のない男と、余命を宣告されたヒロインが、
自主演劇の場で出会う」
などのように細かく設定すれば、
少しは展開を作れそうではないか。
もっと細かく設定すれば、もっとディテールが出てきそうだ。

逆から見ると、
ストーリーとは「知って行く過程」を含むと思う。

恋は「相手を知って行く過程」でもあるし、
殺人事件の調査は「何があったか調べて行く過程」でもある。
知っていけば展開するし、
展開していけばまた新たなことを知ることになる。
設定とストーリーが分離できないところが、
この知って行く過程の面白さではないかと考えられる。


だから、設定は出来るだけ具体的に細かくやると、
ストーリーの芽が湧きやすい。

しかしストーリーには、
必要十分な設定でよい。

ということは、
用意した大部分の畑からは、
芽が出ないまま終了する、
ということである。

無駄に使われなかった設定、
いわば死に設定が沢山沢山出てくるということ。

そしてそれは世に出ないということ。


創作とは、
物理の法則、エントロピーの増大に反する行為である。
カオスが拡大するのではなく、ある種の秩序が生まれるからだ。
しかし沢山沢山ゴミが出ることで、
トータルではエントロピーは増大している、
と考えることも可能で、
そのゴミとは、第一稿や死に設定のことだ。

豊かな畑に沢山種を蒔き、
沢山の芽を出させることは悪くない。

しかし与えられた時間を考えて、
膨大すぎてほとんど使わない設定を考えてもしょうがない、
ということは知っておいたほうがいい。


逆に言えば、
決定稿ができたとき、
使用しなかった畑はぜんぶ焼き払うのだ。
もったいないけどしょうがない。
資料は段ボールにしまっておしまいだ。

事前にどれだけ畑を耕すべきかは、
経験を積めば見積れるようにはなってくるが、
多少はルーズに大目に用意すればいい。


設定はほどほどに沢山、
上がりから見れば最小限。
見極めはむずかしい。
posted by おおおかとしひこ at 01:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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