設定というのは、ストーリーの畑のようなものだ。
そこからいつか芽が出てストーリーに成長する。
途中で枯れてダメになるやつもあれば、
枝を広げて花を咲かせ、結実するものもある。
設定を大目に作ることは悪いことではない。
畑は広いほうがいい。
どんな芽が出てくるかわからないからこそ、
設定は大目に作っておくとよい。
慣れれば、
「これくらいの話にはこれくらいの設定を用意しとけばよい」
なんてことが見積もれるようになる。
「今回は多いから、ここはごっそり捨てよう」
なんてことも判断できるようになる。
「捨てる部分はどっかで再利用したろ」も稀によくある。
ストーリーには、必要十分な設定がベストだが、
まだどんなストーリーか出来ていない状態の時は、
設定は大目にあったほうが安心だ。
なぜなら、ストーリーというのは設定が連れてくるからだ。
大抵設定の隅をほじっているときに、
ストーリーの芽がでることが多いと僕は思う。
大まかな設定の時には、
ストーリーはあんまり具体的にならなくて、
細かい設定ができた時に、
これがこうなると面白いぞ、
なんて思いついたりすることはよくある。
頭の中で動かすときに、
設定が細かいほうがイメージしやすいのだろう。
「主人公とヒロインが恋をする」
ぐらいだと全くストーリーが思いつかないが、
「自信のない男と、余命を宣告されたヒロインが、
自主演劇の場で出会う」
などのように細かく設定すれば、
少しは展開を作れそうではないか。
もっと細かく設定すれば、もっとディテールが出てきそうだ。
逆から見ると、
ストーリーとは「知って行く過程」を含むと思う。
恋は「相手を知って行く過程」でもあるし、
殺人事件の調査は「何があったか調べて行く過程」でもある。
知っていけば展開するし、
展開していけばまた新たなことを知ることになる。
設定とストーリーが分離できないところが、
この知って行く過程の面白さではないかと考えられる。
だから、設定は出来るだけ具体的に細かくやると、
ストーリーの芽が湧きやすい。
しかしストーリーには、
必要十分な設定でよい。
ということは、
用意した大部分の畑からは、
芽が出ないまま終了する、
ということである。
無駄に使われなかった設定、
いわば死に設定が沢山沢山出てくるということ。
そしてそれは世に出ないということ。
創作とは、
物理の法則、エントロピーの増大に反する行為である。
カオスが拡大するのではなく、ある種の秩序が生まれるからだ。
しかし沢山沢山ゴミが出ることで、
トータルではエントロピーは増大している、
と考えることも可能で、
そのゴミとは、第一稿や死に設定のことだ。
豊かな畑に沢山種を蒔き、
沢山の芽を出させることは悪くない。
しかし与えられた時間を考えて、
膨大すぎてほとんど使わない設定を考えてもしょうがない、
ということは知っておいたほうがいい。
逆に言えば、
決定稿ができたとき、
使用しなかった畑はぜんぶ焼き払うのだ。
もったいないけどしょうがない。
資料は段ボールにしまっておしまいだ。
事前にどれだけ畑を耕すべきかは、
経験を積めば見積れるようにはなってくるが、
多少はルーズに大目に用意すればいい。
設定はほどほどに沢山、
上がりから見れば最小限。
見極めはむずかしい。
2019年07月08日
この記事へのコメント
コメントを書く