壮大なストーリーはあるのだろうか、
ということを時々考える。
SFだろうが特殊な世界ものであろうが、
人間同士の物語が映画的ストーリーだ。
ということは、どんな宇宙規模、時間規模のモチーフでも、
人間関係の距離になるのではないか、
と考える。
これに気付いたのは、
北斗の拳を読んでいるときだった。
暗殺拳の伝承者のストーリーラインも、
天を二分する南北の拳法の争いも、
ストーリーを進めているうちに、
兄と弟の話に収束したり、婚約者のレベルになったり、腹違いの兄になったり、
全員昔同じところで育った孤児だったりして、
えらい狭い人間関係が、
天を二分する闘いのスケールと重なっているだけなんだな、
と気づいたことがあった。
つまり、見かけの距離感は、世界を二分する距離感でスケールを出しながら(ガワ)、
実質は兄弟孤児などの人間関係(中身)
なのだな、ということに気付いた。
その後、たとえば中世ヨーロッパの騎士ものを見ると、
彼らのいう「国」は現代のそれではなく、
盆地の見える範囲のことだったり、
「世界」は地球全体ではなく、盆地三つくらいのことだったりする。
「王」はそれを統べるが、
それは現代でいうところの族長レベルに過ぎず、
せいぜい暴走族をまとめているやつの人間関係だ。
それを世界を統べる偉大なる王、
などと言葉で大袈裟にしているのだな、
ということになんとなく気づいてくる。
SFになってもそれはかわらない。
「スターウォーズ」は結局親子と双子の話だし。
つまり、スケールの大きさ(ガワ)と、
人間関係の狭さ(中身)の同居が、
物語ではないか、
と僕は考えるようになった。
で、結局、人間関係とは、
半径3メートル以内のことなのだ。
親兄弟、身内などなど。
知らない人との関係は人間関係ではない。
知っている人との関係が人間関係だ。
せいぜい部下と上司が最も遠い。
恋人とは遠い人間関係が近くに変化する現象のことで、
だから人間関係の中ではダイナミックなのだ。
つまり、壮大なスケールの中に、
半径3メートルの人間関係を持ち込むと、
ストーリーになるわけだ。
だから、
「実はこの二人は兄弟」
「実は父だった」
「兄弟が国を二つに分けて争うことに」
「親友だったはずなのに」
「実は昔付き合ってた」
などのことが、
SF的スケールの中で上手く繰り広げられると、
面白くなるわけなのである。
所詮人間関係というのは、
この程度の距離感でしかない。
そういえば「シンゴジラ」に人間ドラマがないと批判したけど、
多くのオタクはないから良いのだ、
と批評する傾向にある。
それは、人間ドラマが小さいスケールで、
ゴジラの破壊スケールと異なりすぎるからだろう。
本来は、そのスケールを埋めるだけの、
人間の深いドラマが求められているのだが、
脚本家の実力不足で、
「せっかくのスケールの大きなところに、
しょうもない恋愛とか入れられて萎える」
現象が多いため、
しょうもない距離の人間関係に疲れているのかもしれないと思ったわけだ。
本来は、
わざわざゴジラでやらなくても面白いだけの深い人間ドラマがあり、
それをゴジラ世界でやると、
さらにスケールが壮大になり、深くなる、
ということをやるべきだが、
それは今ないので、人間ドラマイラネとなるのだろう。
じゃあ、怪獣プロレスを延々見るのが娯楽になるのだろうか?
そこのところはよくわからない。
少なくとも今回のハリウッドゴジラは、
まったく面白そうに感じない。
怪獣プロレスなら昭和に散々見たし、
ウルトラファイトだって毎週見ていた。
それに、それよりも凄い、
人間達の技術の詰まったプロレスを散々見ていたから、
今更プロレスにはなんの感動もしない。
猪木がゴジラに負けるとは思えない。
ということで、怪獣プロレスは、
ほんもののプロレスより劣るので、
どんなにCGが出来ていても、新しくないと僕はおもっている。
(もっとも、深い人間ドラマがあるのなら見てもいいけど、
予告からはそれを期待できない)
話がそれた。
結局、どんなにスケールを大きくしても、
ある人間関係のことに、ストーリーは収束する。
必ずだ。
恋人のこととか、兄弟や親子のこととか、
近所の人間関係のこととか、友達のこととか、
そうしたことになっていく。
「20世紀少年」だって、世界を破滅に持ち込むスケールが、
小学校のクラスメートの人間関係の話であった。
「アキラ」だって、東京を壊滅させる超能力のスケールが、
金田に嫉妬する鉄雄の人間関係の話でしかなかった。
つまり、よくできた話は、
スケールの大きなガワと、
人間関係の近いが濃い関係の中身とが、
どう重なり合っているのか、
ということなのだ。
最初は全く違う文明同士の接触だったとしても、
恋人関係という身内になっていったりする。
(ダンスウィズウルブスなど、多くの異文化もの)
つまり、
その壮大なスケールの話が、
人間の身の丈になったとき、
矮小な人間関係が大きく見えるように、
設定を組んでいくとよい。
どんな人間関係でも、
世界の破滅を賭けるようになれば、
スケールは大きくなるのだ。
たとえば、
スケールは大きかったのに、
人間関係がまったくなくて詰まらなかった作品に、
アニメ版「幻魔大戦」がある。
富士山上空での闘いのアニメーションは素晴らしいが、
ただの怪獣プロレスであった。
スケールが大きいだけでは、
ドラマとして面白くない。
ただの身内の話だと、スケールが小さくて面白くない。
コツは、スケールの大きなところに、
身内の人間関係を上手に持ち込むことだ。
結局、狭い人間関係が、壮大なスケールで行われるだけなのだが、
それを感づかれたら終わりだ。
ガンダムだって、アムロ-セイラ-シャアという三角関係が核なのだ。
(アニメ版ではそうでもないが、小説版では核だ。
それを上手に続編で処理できなかったことが、ゼータ以降の失敗の原因だ)
結局身内の話を、いかに壮大なスケールに載せられるか。
手腕はそこにかかってくる。
2019年07月13日
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