最近の若手と喋っていてびっくりした。
最近の大学では、もう紙ノートはほとんど使わないらしい。
ノートPCで板書を取るのだそうだ。
そりゃ写メで板書を撮る、失礼な行為も横行するというものである。
僕は、デジタルの文字は、知識にならないと考えている。
自分の体を動かして得たものが知識であって、
知識は経験だと考える。
ノートPCの打ち込みは、どんなものであっても、
知識にはならないと考える。
これしか体験していない人にどう説得していいかわからないが、
自分で手書きで字を書いたほうが、
頭に入ることは、これまでの実験から報告されている。
(ソースなし)
なぜかを考えると、
デジタルは所詮外部記憶装置だからじゃないかと思う。
アナログの文字書きは、
自分の中にそれを入れる行為なのだ。
咀嚼が必ず入る。
ただのコピー打鍵なら、全然体に入ってこない。
ちなみにデジタルの文字起こしのコツは、
内容を理解せずにただの機械として打つことらしい。
内容を理解することが、コピー打鍵のブレーキになるわけだ。
ただ真似をして踊るような行為が、
コピー打鍵の本質だ。
理解と真逆の行為である。
手書きは辛いから、ということがPCの理由だろう。
しかし、その辛さが体験になっている、
という手書きの本質を知らないだけだ。
手書きはつらい。
だから、なるべく楽をしようとする。
理解していれば、書かなくていいことを探すようになる。
つまり手書きは内容の最小を探求する。
理解や記憶と不可分なのだ。
(記憶は自分に負担が最小になるようになっている)
つまり理解とは、
自分に負荷をかけることでしか達成できない。
コピー打鍵のコツは真逆で理解しないことだ。
ただの作業をクリアすればよいことになる。
大学生がバカになるわけだ。
作業だと思うから、写メを撮るほうが更に合理的だという発想になるのだろう。
ノートを取る行為は作業ではない。
自分に負荷をかけて、理解に至るまで、
自分の中でかみ砕く行為だ。
知識は暗記ではなく、経験のことである。
写メで撮ったらなんの意味もない。
手書きで写す行為は、第一の経験になっているのだ。
(さらによい経験は、知識を現実でためし、
理論と現実のフィードバックを行うこと)
日本語で書き写す行為は、
昔から寺子屋で重視されてきた。
古くは写経からあっただろう。
しかしただ写すコピーではなく、理解を伴う行為として重要だったから、
坊主の修行として有効だったはずだ。
寺子屋で写したことは、かなり記憶に残っだろう。
重要なことは、日本語の文字は表意語が多く、
ビジュアルで記憶がなされることだ。
筆文字ならさらに記憶が強烈だっただろう。
(日本人の言語領域は、西洋と違う部分を使っていることが分かっている)
この特別な言語を使う我々が、
たかがタイピングで思考を停止する必要はない。
大いに手書きで考えるべきだと思う。
問題は、これを知らないやつが、
タイピングを先にマスターしてしまっていることだ。
馬鹿が増えるわけである。
僕はデジタルはアナログの代替装置でしかないいと思っている。
しかも下位互換でしかないと考えている。
だから、デジタルになくアナログにあることを、
沢山書こうとしている。
デジタルで書いたことは、外部記憶装置になる。
アナログで書いたことは、体を通じて自分の一部になる。
100%そうでないことは経験していれば分かるだろうが、
おおむねそういう傾向があると思う。
我々は表現者として、
外部記憶のコピペやキュレートやマッシュアップだけをするべきではない。
それはジャーナリストやエディターの仕事であり、
クリエイターではない。
鮮烈なオリジナルが欲しければ、
鮮烈な体験をせよ。
あなたの体の中からしか、それは出てこない。
どこか外部からは出てこない。
そもそも、
道具の上限が、仕事の上限になるべきではない。
アナログには上限がない。
(肉体や精神が持てば)
時代は変わっても、愚か者のやることは同じということでしょう。
写経の時代にデジカメを持っていっても、同じことが起こると思います。
そして「世の中は便利なった。板書を写真で撮れて、
AIが手書きを認識してデジタル文字に落としてくれるようになった」
となり、
そのうち「板書をpdfでください」というようになるでしょう。
そのとき「知性」は外部記憶化してしまい、
本人の空っぽが完成すると思います。
勉強はアスリート行為に似ていると僕は考えます。
筋肉や反射系を鍛えるのがアスリートだとしたら、
勉強は、脳を手で鍛える行為だと考えます。
そこは人間のアナログ構造が変わらないので、時代が変わっても同じと考えています。