日常が詰まらなくて、こんなもの爆発してしまえと思っている人は、
フィクションの世界に浸りやすい。
そこでは、爆発したりするからだ。
物語とは、架空のことを扱う。
現実に起こらないことほど面白い可能性がある。
だからバンバン爆発する。
それを、爆発しろと思ってる人は、
「おもしろい」と反応するわけだ。
もし311が架空の出来事ならば、
超楽しいだろう。
あんなに家が流れて、あんなに人が簡単に死んで、
あんなにどす黒い波が日常に覆いかぶさって来る様は、
最高のエンターテイメントになるだろう。
不謹慎か?
だったら多くのディザスタームービーは全部不謹慎だ。
人は、この変えられない固定した現実の日常を、
なるべくひっくり返したい。
自分でできないから、誰か他の人に。
政治家や上司が現実の世の中を変えようとしないなら、
架空の中で。
巨大ロボットが街を破壊する。
怪獣が街を襲う。
幽霊が連続惨殺事件を起こす。
宇宙人がホワイトハウスを爆発させる。
超能力が目覚めて爆発する。
衛星砲が東京を蒸発させる。
タイムリープしたり人格が入れ替わったりする。
前世の記憶が目覚めて、「本当の私」に目覚める。
戦争が起こる。
ドラゴンが飛び、高速道路が倒れる。
なんでもいい。
爆発する。
日常が瓦解して、常識が飛んでゆく。
それが物語が扱う非日常の面白さだ。
これ描くことは、
ストーリーの実力の、約1/10程度だと思う。
僕に言わせれば。
壊すのは誰にでも出来る。
センスと根性と精度があればね。
アニメや漫画「AKIRA」の、
綿密に書き込まれた崩壊シーンが頂点のひとつだ。
容易に想像されるように、
破壊しつくしてしまったら、
何もすることがなくなる。
短編のバッドエンドはそれでいいかもしれない。
「ああ、爆発をいっぱい見てスッキリした」
と思うかもしれない。
人がいっぱい死ぬホラーも同じだ。
ジェイソンは必ず、
キャンプ場でセックス中のリア充を殺すことになっている。
文字通りリア充爆発しろなわけだ。
シンゴジラは、爆発をたくさん見て楽しむアトラクションで、
「アトラクションの何が悪い」と、
アトラクション擁護派は開き直るだろう。
ただ爆発が見たいだけなんだろ?
花火大会に行きなさい。
そうした人たちの求めるカタルシスは、
爆発をどれだけ見たかしかない。
僕は、そこに人間の攻撃本能を見る。
攻撃本能を満たしていない人たちが、
不満を抱えているわけだ。
それがSNS炎上しようが、恋人を殴ろうが、
下の者いじめをしようが、ゲームをしようが、
フィクションを見ようが、
同じ本能の発露に過ぎないと考える。
それを、カタルシスと言い換える人もいる。
日常が爆発してスッキリすることを、
カタルシスという。
仮にこれを爆発のカタルシスと呼ぶことにしよう。
フィクションの物語は、
爆発のカタルシスがなくてはならない。
日常に不満を抱いている人ほど、それを求める。
たとえば風俗はその爆発をさせる装置である。
金で買った女に攻撃本能を満たし、全能感を味わうわけだ。
女にとっての攻撃本能はなんだろう。
エステがそれを代替していると聞いたことはある。
何かに包まれる安心の忘我が、どうでもいい日常を遠ざけるのはわかる。
ようやく本題だ。
爆発のカタルシスだけが物語か?
それは違うと僕は考えている。
爆発のカタルシスだけだったらほかに沢山あるからで、
物語の特性はそれだけではないからだ。
爆発のカタルシスだけの映画もある。
「台風クラブ」はその典型で、
若者の衝動のようなものが見事にフィルムに収められている。
しかしこれは当時のメディアが少なかったから、
爆発のカタルシスを映画でやるしかなかったからの、
作品だと思う。
もちろん、小説などの旧メディアでそれをやった例もあるだろう。
しかし現代では、
上にあげたようなさまざまな爆発のカタルシスを得る場があるので、
映画だけが爆発のカタルシスのメディアではない。
つまりはシンゴジラは、風俗と同程度の価値だ。
あ、風俗の方が高いのか。
たとえばAV監督マンハッタン木村さんの作品群は、
爆発のカタルシスを性衝動に絡めるのが上手い。
「家ついてっていいですか?」のシリーズは、
優れた(フェイクも含めた)ドキュメンタリー爆発カタルシスだ。
シンゴジラはこれが東京に変わった程度だと思う。
若い人が爆発のカタルシスの物語に反応しがちなのは、
それだけ現実に不満を抱えている証拠だ。
「バッドエンド好き」という若者特有の性質も、
同じことだと僕は考えている。
「世にも奇妙な物語」や「笑ゥせぇるすまん」は、
そのようなバッドエンドで、爆発のカタルシスを描いた。
それは物語を描く1/10程度だと思う。
残り9/10はなんだろう。
仮に、成長のカタルシスと呼ぶ。
物語は変化を描く。
爆発は悪い変化だ。
その爆発が起こったことで、
世界がより良くなったことを描くのが、
成長のカタルシスだ。
エントロピー増大の法則によれば、
爆発させる方が簡単で、
構築したり成長したりすることの方が困難である。
物語も同じだ。
生命の本質は、エントロピー増大の法則の逆である。
カオスに至る世界を、生命現象という組織化を行う。
これがなぜ起こるかまだわかっていない。
川が流れる時、ほとんどは下流へ流れるが、
たまに起こる渦が生命のようなものだと説明される。
で、それを、
色んな人が納得するように描くことは、
爆発を描くよりはるかに難しい。
そしてそれこそが、
時間軸を持つ物語だけにある、
特有のカタルシスだと僕は考えている。
つまり、爆発があってエントロピーが増大して
(=カオスになって)おしまいなのではなく、
その後エントロピーが減少する(=新しい秩序へ移行する)
ことを描くのが、
物語の使命だと考えている。
逆にそれは、物語にしか出来ない。
非日常で日常が爆発したが、
それが起こったことで、
よりよいつぎのステージへいくことを成功させた、
ということが、
物語独自のカタルシスだと僕は考えている。
だから、爆発のカタルシスなんて簡単だ、
と僕は考える。
あなたの物語の中で、
爆発のカタルシスはなんだろう?
どういう非日常が、僕らの現実を爆発させてくれるのだろう。
それでスッキリしたかい?
多くの不満をスッキリさせる機能を果たしているだろうか?
じゃあ次は、それによって、
どういう次のステージへ成長するカタルシスがあるんだ?
それはリアリティがあり、説得力がなくてはならない。
それこそが、物語の本体だと思う。
シンゴジラやAKIRAの爆発のカタルシスは凄い、
しかし、成長のカタルシスはほとんどない。
だからアトラクションだと僕はいう。
爆発させて喜ぶのは、子供だと僕は思う。
大人は、責任を持って世界をよくしていく。
2019年07月15日
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