2019年07月16日

世界と村と人間関係(「スパイダーマンHC」評2)

物語とは、世界と人間の関係を描く。
世界が広ければ広いほど、スケールは大きくなる。
一方、物語は人間と人間の関係も描く。

この組み合わせが、物語のちょうど良さを決める。
重要なことなので、しばらくネタバレ無しで。


世界10、人間関係0を考えよう。

宇宙的進化を、一人で見続ける男が主人公だ。
宇宙がはじまり、生命は進化し、
現在の地球や銀河になる。
で?

男はただ考えるだけ?呟くだけ?
そう。男は「なにもしない」から、詰まらないのだ。

宇宙は勝手に進化するが、男はなにもしない。
では男が世界を自由に改変するとしたら?
神の立場で。
銀河を作り、ブラックホールを作り、
何かを壊し、何かをまたつくる。

それ、面白いストーリーか?
ある種の興奮、全能感を味わうことにはなる。
それは、箱庭のカタルシスである。

「世界を自由にできる」という興奮に過ぎない。
ある種のゲームでそれを味わうことができる。
「シムシティ」は箱庭ゲームの元祖で、
盆栽やアクアリウムも同様だ。
ツクール系や積み木やレゴもだ。

それをユーチューブで実況的に眺めるのは面白い。

それは動画ではあるが物語ではない。

物語にはなにが必要か?
僕は「他人」であると考える。

アダムの話ならイヴが必要だ。
神の話なら、もう一人の神が必要だ。

一人で砂遊びしているのを実況しているのは物語ではない。
他人と何かをする(共同、喧嘩、その他)ことが、
物語である。

誰かの思考や感情をトレースすることは面白いが、
それは物語ではない。

たとえば、
「ツリーオブライフ」の長い長い宇宙進化のパートを、
見てみたまえ。どれだけ美しくても退屈だ。
「火の鳥」では宇宙での孤独の結末は、「そのうち考えるのをやめた」だ。
(「ジョジョ」第二部のカーズはこれが元ネタ)
あるいは、クソ漫画「ファイアパンチ」の、
数千年後からの退屈は、孤独の退屈と同等だ。
あるいは、「バガボンド」の農業編は、
何か面白いことがあったか?

つまり極論すると、
物語とは、
孤独の退屈をまぎらわせるための、
「他人との関わり」を描くことだ。

たとえば自作キーボードの半田付け動画は、
僕にとってとても面白いが、
それは僕が半田付けの孤独な時間を同等に過ごしているから理解できる。
酒とツマミの話ができるのは、その分の孤独の時間があるからだ。
それを一般に「趣味」という。
趣味は孤独の時間を何で埋めるかということである。

物語を味わう行為自体は、孤独なる趣味であるが、
その内容は孤独であっては意味がない、
ということだ。
極論すれば物語とは、
孤独で退屈している人が、
「孤独でない他人との関わり」を見て楽しむことなのだ。


ということで、趣味の動画でない限り、
必ず物語には他人が出てくる。
例外はない。あったら教えて。


逆のことを考えよう。

世界0、人間関係10だ。

狭い家に押し込められた、
大家族やシェアハウス、
あるいは部活や会社の部などを考えよう。
とても狭い領域での濃い人間関係だ。
さらに世界を狭くする。
「プライベート空間と時間を0にする」
をイメージしよう。
ずっとイライラしたり、
軍隊のような秩序になったり、
心が病んでいくだろう。
そうしてやはり、考えるのをやめるかもしれない。

つまり、
人間関係に必要なのは、
「その場での関係」と、
「別の場所での何か」になる。

これは人間を描くときの重要な知見で、
シーンが複数ある理由である。
(だからワンシーンものは難しい)

あるいは、「半径2メートルの人間関係」
などと、下手な物語を称していう。
作者の体験談しか書かれてなくて、
「それはお前の周りの話やんけ」で終わるものだ。
逆にいうと、物語とは、
「誰にでも当てはまること」という共通項が必要なわけだ。
(それは具体でなく抽象がよい。
医者の話は、医者以外が理解できなくなる。
医者の物語を我々が理解できるのは、
「人が人を救うこと」に共通する何かを描いているからだ)
つまり、
誰にでも当てはまらない世界は、
世界が狭い。


さて、
適度なバランスとはどういうことか。

世界がそこそこ広く、
人間関係がそこそこあることだ。

そして、面白い話というのは、
「世界の極限が、人間関係の極限と一致している」
とよくなる、
というのが本題。

どういうことかというと、
良くあるのが、
「世界を統べる王が、父親」とか。
「恋人が、相手国の王女」とか。
「親友が、敵国の隊長」とか。
似たやつに「警察署長が真犯人」とか。

その物語世界の最も遠い部分を、仮に極限といった。
ラスボスとか、世界の果ての王とか、
別次元の裏世界の最上階とか。

同様に、主人公から見て最も近くて遠い人間関係を、
仮に極限と言った。

近くて遠いことが重要で、
遠いだけだったら「通りすがりの人」「親戚のおじさん」
になってしまうからね。
濃い人間関係が極限であった方が面白い。
愛憎が渦巻いた方が面白い。

「真犯人は、会ったこともない通りすがりの人だ!」
じゃ面白くもなんともない。

「愛した女なのに、敵国の王女」
「夫を殺した敵国の男と、結婚しなければならない」
「バイトの店長とセックスするなんて…」
とかがいいわけだ。


逆にいうと、
面白い物語とは、
この、「世界の極限と、人間関係の極限の新しい組み合わせ」
を探すことに他ならない。


スパイダーマンの特質は、
「世界が狭い村でおさまっている」ところにあり、
村の人間関係の極限が世界の極限とスケール感があっているところにある。

隣の幼馴染みの女の子がヒロインで、
彼女は全米アイドルになり、
新聞王の息子の宇宙飛行士の婚約者になる。
大学の直属の教授がヴィランになり、
親友と父がヴィランになる。

世界はこの村に限られている。
それが人間関係を極限に使って、
世界の極限を描くことに成功しているわけだ。


これは中世もので、
王といっても盆地ぐらいの人間関係で、
世界は終わったといっても盆地ぐらいの話で、
世界で初めてのといっても盆地ぐらいの話で、
それでも世界はこの全てだ、
ということに、
人間関係と世界のスケールが大きく見えるわけである。

(同様に神話世界がある)



スパイダーマンは、つまり西洋の中世ものに、
世界と人間関係のバランスが近い。
それがストーリーが
「身近なことなのに壮大に見える」
の理由だ。


さて。

リリブート版。


ネタバレにつき、改行。





















第二ターニングポイント、
父の正体。
いや、バルチャーの正体、というべきか。

敵という世界の極限と、
人間関係で最もプレッシャーのある、
初デート迎えにいったときの父親という極限。
そこの一致をしたところが、
この物語のオリジナリティだ。

かつてサム・ライミ版の1では、
「興行主を襲ったけど見逃した強盗が、
叔父を殺す」という見事な、
「世界の極限と人間関係の極限の組み合わせ」
があった。
そこが「大いなる力は、大いなる責任を伴う」
という叔父の言葉と重なってくるところが、
このストーリーのオリジナリティであり、
アイデンティティだ。


今回版では、
サム・ライミ版を超える、
「世界の極限と人間関係の新しい組み合わせ」
を見つけてきた。

惜しいのは、
この構造の面白さと、
テーマがなんの関係もなかったところだ。

しかしそのあとの車の中が秀逸で、
「このまま見逃して、娘とダンスをしてろ」
と脅されるところが最高だ。

そのあとの決断こそが、
このストーリーのテーマとなってくる。

ただこのパターンは沢山あるなあと思ってしまった。
類型の中では抜群に良かったけれど。


あとアベンジャーズを横目に見ているので、
正義や悪との距離感を定義するのが難しいだろうなあ、
という問題はある。
「隣人のヒーロー」という結論は、
このシリーズのアイデンティティだ、
と確定させたのが潔くて、僕は好きだなあ。

ラオウ(とカイオウ)亡き後の北斗が、
向かう先が見えなかったことと対照的だなあと。
posted by おおおかとしひこ at 14:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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