多様性がいいことかどうかはまだわかっていないが、
マーケットが多様性の方向に流れているのは止められない。
こんなときに、我々はどこを向くべきか。
観客に多様性があるのだから、
それに応じた商品を用意しよう、
というのが最初に考えることだろう。
○○向け、というのは昔からある考え方だ。
しかし容易に想像される通り、
市場を分割することになり、
隣のことはわからなくなっていく。
自分の興味のある○○は分かるが、
分からないものは分からなくなっていく。
世界は村に、市に、一族に戻っていくわけだ。
これは、作品の裾野が広くなり、
バラエティが生まれることでもあるが、
観客の総人数は変わらないので、
一作品あたりの予算は減る。
予算が減れば面白さは安くなるので、
結局人気は出なくなり…
というデフレスパイラルに陥る。
裾野が広くなるということは、
甲子園にたとえれば地方予選が多くなるようなものだ。
有象無象のゴミから、自分の求める宝を探さなくてはならない。
探すのが面倒な人は探すことを諦めるし、
偶然全く違う宝に会える確率は、
等比級数的に下がって行く。
多様化の裾野はこうなっている。
頂上はどうか。
観客が多様化したから、
より共通の何かを探さなくてさならない。
つまり人間として共通の、
より根源的ななにかを描く必要が出てくる。
つまり、頂上はより面白くならない限り、
制作スタートにならないし、
儲かりもしない。
ということで、中間層がごっそりいなくなる。
裾野の地獄が広がり、
頂上にたどり着くことが困難になる。
なんだか今の日本みたいだ。
共産主義の、みんなそこそこ幸せが懐かしくなってくる。
あなたは今後、どちらかを決める必要がある。
誰々向けの小さな商売になるか?
より困難な頂上を目指すか?
僕は前者の中で後者の志を見せてきたが、
頂上は遠ざかっていく。
しかも日本映画の頂上は面白そうに見えなくなってきた。
多様性は正義だが、本当の正義かは分からない。
困ったものだが、前を向いて生きて行きたい。
つまり、精度の差こそあれ、「より根源的ななにか」へのアプローチの仕方が複数あっただけ、という可能性はないでしょうか。
いや、みんながみんなそこまで考えてやっているわけではないか……。
悲観的かもしれませんが、物語を求める層が多様化された中のひとつになってしまっている気もします。
乱文失礼しました。
卵が先か鶏が先かという話もあります。
危険のある賭けよりも固く儲けよう、
という会社の指示もあります。
「儲かる保証のある計画書を」と求める銀行もいます。
多様化は結果でしかなく、元には戻らないものになってしまいました。
「ほんとにいいものを見ていない」という、
歴史の断絶の問題もあると思います。