2019年07月18日

人外は何故物語に登場するのか

獣、半獣半人、妖精、妖怪、幽霊、超能力、改造人間。
忍者、騎士、貴族、敵の一族などの身分制。
宇宙人、知的生命体、神、ロボット、クローン、合成生物、AI。
外人、別の宗教、別の村、土蜘蛛や鬼畜米英。

「人間と意思疎通の出来る、人間と別の種」
は、何故物語によく出てくるのだろう?

人間を描くためである。


私たちは、おそらく一生、
「私たちはだれか?」に答えることが出来ない。

人は物心ついた頃からその疑問を問うことになるが、
「そうか!私とは○○だ!」
と自分探しの答えを見つけて「完」となった人はいないだろう。
(いたら教えて。それを揶揄したのが全ての答え、42だ)

精々、
「私は現在こう思っていて、
他人からはこう思われているだろう、
そして過去から現在の流れはあるが、
未来はどうなるか不定」
という曖昧ななにかがあるだけだ。

さらにもっと大きなカテゴリ、
「人間とは何か?」
に答えることは更に難しい。

私たちは「私は誰か?」に納得して答えられず、
私が所属する「人間とは何か?」にも納得して答えられない。

「犬とは何か?」なら、
まあ答えられそうな気がする。
そこまで当事者ではないからだろう。

つまり、当事者は当事者のことを答えられない。


で、人外、
すなわち「人間と意思疎通は出来る知的存在だが、
物理的に違う存在」を出すと、
当事者と人外の距離を測定することができる。

たとえばロボットは、
「人間より強く、壊れたら直せばいい物体だが、
感情を持たず、人間が何故涙を流すか理解できない」
などだ。

このような存在を出すことで、
「人間は弱く、壊れたら戻らない存在で、
感情は千々に乱れる」
という定義をすることが可能なのだ。

つまり、
人間とはこのようなものだ(テーマ)、
ということを描くために、
逆のものを当てるのが、人外というモチーフの使い方だ。

人間ははかないということを描きたければ、
永遠の命を持つ人外を当てればいい。
人間には優しさや自己犠牲があると描きたければ、
理性的で冷たく、自己中心的な人外を当てればいい。
人間は愚かで群衆になると暴徒になると描きたければ、
賢く孤独な人外を当てればいい。

(三つ目の例は原作デビルマン)

このような距離感を作り、
ふわふわしたものに枠を提供するために、
人間とは別のものを使うのだ。


人間は、自分にないものに憧れを持つ。
だから人外には魅力がある。
人外の魅力は、人間を遥かに凌駕する何かだ。
(あるいは人間が当たり前に持っている何かがないのも、
魅力だったりする)

力が強い、永遠の命を持つ、常に計算できる、
スーパーパワーがある、技が凄い、
ビジュアルが違う、機能が違う。

これらは全て我々の、「○○が出来ない」
というコンプレックスの裏返しであることに注意されたい。

そしてそれらには大抵欠点も設定されている。
彼らには出来ないことが人間には出来ることで、
「人間のいいところ」を示すためだ。

つまり、人外の物語とは、
「人間は○○が出来ない、
しかし人間は△△が出来る」というストーリーなのだ。
これは、
渇きから入り、生まれ変わり成長するカタルシスと、
同じ構造をしているのである。

逆にいうと、ストーリーの定型のために、
「人外は○○が出来るが、
△△が出来ない」
が設定されるのだといって過言ではない。



人外には魅力がある。
同時に、人外には欠点もある。

これって、人外にせずとも、
他人に設定したって良いことになる。

自分と異なる他人にコンプレックスを感じた主人公が、
それでも自分の長所を見つけ、
自信を取り戻し何事かを解決する、
ふつうのストーリーの原型と同じであることに注意されたい。

なんだ、
つまり、
人外とは戯画化された他人なのだ。

「おかあさんが怪獣にみえる」子供と同じなのだ。

それらを変形しまくった、
人外とは物語上の小道具なのである。


外人や異文化、異宗教、異身分を冒頭に含めたのは、
そういう意味だ。
「外人の感心する日本」で、
私たちが日本を再発見することと、
人外によって「人間とは何か」に答えることは、
構造として同じである。


見た目が違い、魅力が違うから、
人外が出てくるものは全部違うジャンルに分類されてしまう。

「他人が人間であるものと、
人間設定ではないもの」
の2ジャンルに分けるだけでいいのにね。

まあ、人間の悪役に対して、
「お前ら人間じゃねえ」というセリフもあるわけだ。
この場合、鬼畜の所業にたとえることで、
人間とは正義であるとテーマにするわけだね。



幽霊ものが好きだから、
妖怪ものが好きだから、
ケモナーだから、
忍びと姫の身分違いが好きだから、
ロボットが好きだから、
そのストーリーを書くことはいいことだ。
その人外に執着があることは、ストーリーを力強くする。

しかしそれらは人外ジャンルととらえて、
別の人外に、
別の他人に、
話を作り変えることもできるのさ。

「ある日おかあさんが宇宙人になってしまった」
というストーリーだって、
おかあさんが別の男と浮気していることの表現かも知れないのだよ。



人外とは、つまり他人の象徴である。

人は他人を見て、自分を見ないでは、
答えを出すことのできない生き物かもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 10:04| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今ちょうど人外の侵略者と戦うバトル系漫画を描いているのですが今回の記事を読んで「そういうことか!」とすごく納得しました。

人間のある部分を描くために人外をうまく使うわけですね。
今まで何となくそういうことは感じていましたが
明文化されたこの記事を読んでスッキリしました。

ありがとうございます!
Posted by kyky at 2019年07月18日 10:36
kykyさんコメントありがとうございます。

なんでこうなのかなあと考えていたことが、
ようやく言葉になった感じですね。
異形の者がヒーローになったり、
主人公だけが異常になったりする理由はこれですね。

「異常になると面白い」だけだと出落ちですが、
それがこういう意味があったのだ、
となるとストーリーになります。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年07月18日 13:06
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