2019年07月18日

お話は音である

映画や漫画というと、どうしても絵のことだと考えてしまう。
この絵がいい、悪い、などと考える。
それはお話の本体ではない。


お話は音だ。

セリフのことか。
それだけではない。

絵本を想像しよう。
字が読めない子供でも話は理解できる。

絵があるが、
「そこで何が起こっているか」
を説明する、
地の文やセリフは、「読み聞かせ」という音だ。

ラジオドラマを想像しよう。
音しかないが、話は理解できる。

つまり、お話に絵は必須ではない。

サイレントムービーという、
音はないが絵だけのストーリーがある。

これとラジオドラマ、どちらがお話の本質だろう?


僕は、サイレントムービーよりもラジオドラマのほうが、
豊かなお話を作れると考える。
一発の強さはサイレントムービーという対照的な違いがあると思う。

たとえば小説に絵は必須ではない。
ラジオドラマに絵はない。
「こないだあった話」に絵はない。
天地創造神話や科学など、この世の成り立ちを説明するお話にも、
絵はない。

お話とは、
「過去にあったもう今はないもの」を語ることだ。
本当にあったことを語るのがノンフィクションで、
架空のことを語るのがフィクションだ。

フィクションはかつて
「今は昔」「昔々」「この男が語った奇妙な話によると…」
などの枕詞がついていた。
それは最初にフィクションだと分かっていれば省略しても良いことになっている。
「1999, NY」などと冒頭に出るのも、
過去にあった今はもうないものの、時空を特定する手法だ。
時間表示を省略すれば「現代」になるだけのこと。

話が逸れたが、
豊かなお話は、
最低限音だけで出来る。

お話は、焚き火を囲んだ古からあるものだからだ。
すべてはこの変形に過ぎないのだ。


ということで、
「自分の作ったお話を、
誰かに声だけで語る(あらすじでもセリフ付きでも)」
というのは、
お話の原型なのである。

そこには音しかないことに注意されたい。

絵はどうするの?
音の説明を聞いて、「聞くものの頭の中に想像で浮かぶ」
のである。

逆に、想像しやすいように言いなさい。

「景色が頭の中に浮かぶようだ!」
というオーディエンスの反応は、
あなたの語りが想像の構築に成功した証拠だ。

この一点を持って、
僕は3D映画や4Kや360度ムービーやVRを否定する。
私たちの想像力を、これらは超えてこない。
ジェットコースターのようなアトラクションとしては面白いが、
それはお話ではない。

お話は、頭の中で絵が想像できることであり、
この想像こそがお話だ。

その想像には、どんな科学技術も敵わないのだ。

僕は映画を立体空間を想像しながら見ているから、
余計な3Dメガネは不要だ。
僕は映画をものすごい画質で想像しながら見ているから、
余計な解像度は不要だ。
僕はモノクロ映画を、僕は8ビットファミコンを、以下同様。

で、結局、絵なしの映画だって、
成り立つと僕は考えている。

最悪ラジオドラマやればいいわけだし。


音とはなんだろう。

ト書き(説明)とセリフである。
どちらかがなくても成立する。

セリフでト書きの代わりをするものを、
説明台詞といい、
ラジオドラマでは必要かもしれないが、
映画では絵で示せば不要だ。
(ハリウッドの教科書で出てくる例は、
「見ろ!やつらは銃を持っている!
(Look! They have guns!かな)」だ。
この絵を写せば、「逃げろ!」とか「諦めろ」
とか、反応として次にお話は進む)



音には構成がある。

実はここからが本題。

はじまりと終わりがある音には構成が必要だ。
大体1/4から1/3までが前置きで、
次が本編で、
最後に結論が必要だ。

音は時間だ。
そして時間とは認識だ。

つまり、音は認識にならなければならない。
構成を持った音が、認識だともいえる。

つまり、
音は構成を伴うというのは、
構成が認識を示しているからである。



ここに来て「脚本とは構成である」
なんて初歩的な教えが顔を出す。
「脚本とは構成である」なんてことを真に受けて、
第一ターニングポイントとかやりはじめても、
僕はダメだと思っている。

もっと初歩的なこととして、
「認識は構成である」ということをマスターされたい。
つまり、
前置きがあり、本編があり、
前置きが最後どうなって、この本編にどういう意味があったのかを、
落ちで示すような構造が、
認識の構造ということなのだ。


それがないものを、僕はお話とはよばない。

結論があり、
そのために前置きがあり、
本編が結論のための腑に落ちる誘導になっていないものは、
お話ではないのである。

しかもお話の出来の良さとは、
その結論への落ち方で決まるのである。


ハリウッドの脚本理論が三幕構成理論から入っている理由は、
この前提になる、
「前置き/本編/落ち」の作文を、
アメリカ人は徹底されているからだ。
日本でその教育はなされていない。
だから日本人は、
脚本が書きたかったら、
「前置き/本編/落ち」を、
無意識に出来るようになる必要がある。

それができてはじめて三幕構成理論をやればいいんじゃない。


で元に戻ると、
お話とは音だ。

正確にいうと、
時間軸を持つ認識の構造だ。

絵ではない。絵は補助である。


ということで、
次回作はラジオドラマを書いてみるといい。
ある種の縛りプレイが、
あなたを勉強させる。
posted by おおおかとしひこ at 11:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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