面白いアイデアを思いついたとしよう。
それに従い、原稿を書いたとする。
いまいち。
アイデアが悪かったのか、その実装が悪かったのか?
これを検証するには、
「同じアイデアに基づいた別の実装」と、
「アイデアをアレンジしてこの実装を改良する」
の二種類があることを知ろう。
そして両方できるようにならないといけない。
そうでない限り、
そのアイデアがいまいちだったのか、
アイデアは良かったが実装が悪かったのか、
自分で検証するすべを持たないということ。
つまり、自分で検証できないなら、
他人に判断を委ねることになるということだ。
他人は時々鋭い指摘をしてくれるが、
9割以上はあなたの思う指摘をしてくれない。
他人は他人のアルゴリズムで動いている。
アイデアが悪いのか、実装が悪いのか判断してほしいときに、
テーマがとか登場人物がとかシチュエーションがとか、
初見の人がとか、それは気にならないとか、
見当はずれの批評をかましてくるのが他人である。
(そもそもアイデアと実装以外に、
目立つ欠点が沢山あるときはそればかりに目がいく、
ということもある)
他人に判断を委ねるとはそういったことだ。
あなたは余計どうしていいか分からなくなり、
本来やろうとしていたことと違う方向へねじれていく。
つまり、
アイデアが良くないのか、
実装が良くないのかを知るには、
両方のバリエーションを考えられるだけの、
実力がいる。
つまり、アイデアを実現するには実力がいる。
ただ思いついたら終わりではない。
そのベストの実装をし終えるまでは、
そのアイデアは意味がない。
京アニ放火犯は「小説のアイデアを盗んだ」
というのが動機のようだ。
(確保時に錯乱して喚いていたことであり、
現在意識不明の重体のため話が聞けず、
これ以上の犯行動機は分からない)
アイデアを盗まれても、
実装に差があれば、それは負けだ。
アイデアに著作権はない。
その実装に著作権がある。
風魔の10話、
「私の好きなところ十個言って?」に対して、
「最初は安易なことを言うが、
次第に本質を突くことを言い、
最後に本当に行って欲しい言葉にたどり着く」
というアイデアは、
まだアイデアの段階だ。
その十個の言葉の並び
(と冒頭の伏線のペア)が、
著作権を有し、
人を感動させるのだ。
どんなアイデアをどう盗み、
どう実装したかは、具体物で検証しないと分からない。
しかし、盗んだ男を惨殺するべきであり、
無差別はお門違いというものだ。
もし実装が京アニの方がよければ、
盗んでもなお京アニの勝ちだぞ、創作の世界では。
負けを認めるのも男だ。
最近男が減っている。
男は負けを認めたら、また立ち上がる生き物だ。
そして今度は勝つ。
勝つまで戦う。
戦うというのは、刃物やガソリンで、ではなく、
新しいアイデアやその実装の仕方の新規性や面白さでだ。
感動の深さや笑いの面白さや、
世の中を変えるほどの新しさでだ。
そのときに、
アイデアが悪かったのか、
実装が悪かったのか(自分の実装力に限界がある)、
自己判断できないようでは、
リライトの迷路に入り、出てこれなくなるぞ。
そして実装が悪い最終物は、
アイデアが良かろうが却下になる。
それだけはたしかだ。
2019年07月19日
この記事へのコメント
コメントを書く