2019年07月19日

アイデアは、着地しなければないのと同じ

面白いアイデアを思いついたとしよう。
それに従い、原稿を書いたとする。
いまいち。
アイデアが悪かったのか、その実装が悪かったのか?


これを検証するには、
「同じアイデアに基づいた別の実装」と、
「アイデアをアレンジしてこの実装を改良する」
の二種類があることを知ろう。

そして両方できるようにならないといけない。

そうでない限り、
そのアイデアがいまいちだったのか、
アイデアは良かったが実装が悪かったのか、
自分で検証するすべを持たないということ。

つまり、自分で検証できないなら、
他人に判断を委ねることになるということだ。


他人は時々鋭い指摘をしてくれるが、
9割以上はあなたの思う指摘をしてくれない。
他人は他人のアルゴリズムで動いている。

アイデアが悪いのか、実装が悪いのか判断してほしいときに、
テーマがとか登場人物がとかシチュエーションがとか、
初見の人がとか、それは気にならないとか、
見当はずれの批評をかましてくるのが他人である。
(そもそもアイデアと実装以外に、
目立つ欠点が沢山あるときはそればかりに目がいく、
ということもある)

他人に判断を委ねるとはそういったことだ。
あなたは余計どうしていいか分からなくなり、
本来やろうとしていたことと違う方向へねじれていく。


つまり、
アイデアが良くないのか、
実装が良くないのかを知るには、
両方のバリエーションを考えられるだけの、
実力がいる。

つまり、アイデアを実現するには実力がいる。
ただ思いついたら終わりではない。
そのベストの実装をし終えるまでは、
そのアイデアは意味がない。



京アニ放火犯は「小説のアイデアを盗んだ」
というのが動機のようだ。
(確保時に錯乱して喚いていたことであり、
現在意識不明の重体のため話が聞けず、
これ以上の犯行動機は分からない)

アイデアを盗まれても、
実装に差があれば、それは負けだ。

アイデアに著作権はない。
その実装に著作権がある。

風魔の10話、
「私の好きなところ十個言って?」に対して、
「最初は安易なことを言うが、
次第に本質を突くことを言い、
最後に本当に行って欲しい言葉にたどり着く」
というアイデアは、
まだアイデアの段階だ。

その十個の言葉の並び
(と冒頭の伏線のペア)が、
著作権を有し、
人を感動させるのだ。


どんなアイデアをどう盗み、
どう実装したかは、具体物で検証しないと分からない。

しかし、盗んだ男を惨殺するべきであり、
無差別はお門違いというものだ。
もし実装が京アニの方がよければ、
盗んでもなお京アニの勝ちだぞ、創作の世界では。


負けを認めるのも男だ。

最近男が減っている。
男は負けを認めたら、また立ち上がる生き物だ。
そして今度は勝つ。
勝つまで戦う。

戦うというのは、刃物やガソリンで、ではなく、
新しいアイデアやその実装の仕方の新規性や面白さでだ。
感動の深さや笑いの面白さや、
世の中を変えるほどの新しさでだ。


そのときに、
アイデアが悪かったのか、
実装が悪かったのか(自分の実装力に限界がある)、
自己判断できないようでは、
リライトの迷路に入り、出てこれなくなるぞ。


そして実装が悪い最終物は、
アイデアが良かろうが却下になる。
それだけはたしかだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:17| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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