2019年07月21日

危機には慣れる

だから、ターニングポイントで目先を変えるのだ。


どんな危機でも、人は慣れるように出来ている。

「地球滅亡まであと○日」と言われて、
最初はそのことに緊張をもっていても、
しばらくしたらそのこと自体に慣れていまい、
別のことが気になり始める。

一年先の受験のプレッシャーがあったとしても、
そんなものすぐ慣れてしまうだろう。
「一生のこと」だと言われたって、
二週間も最大緊張は続かない。

緊張し、それに備えるのは疲れる。
だから人はその緊張に慣れる力を持っている。


物語とは、危機に集中させることで、
事態を進める装置である。

「今○○という危機があり、
これをなんとかしなければならないのだ!」

という焦点に集中することで、
今しなければならないことに集中させる。

そのことに興味が持てなかったり、
今何目的だっけ、がわからなくなると、
そのストーリーは短期的に詰まらなくなる。

で、もうひとつ短期的に詰まらなくなる理由に、
「その危機への緊張に、慣れてしまう」
というのがある、
というのが本題。


どんなに面白げな、新しい危機を作ったとしても、
そのプレッシャーには慣れるのである。

だから目先をちょいちょい変えて、
Aという大きな危機のプレッシャー下での、
Bという目的をクリアして次はCをクリアするが、
トラブルが起こりDを復旧しない限りCは動かない、
などのように作るのである。

この場合、BCDの目的は、
Aのサブ問題だと言う言い方をする。

Aだけでは飽きてしまうので、
目先をBCDに次々と目移りさせて、
大きくはA方向に進んでいる気にさせるのだ。


この目先を変えるターニングポイントのタイミングは、
どうあるべきだろう?

センス、としか言いようがないと思う。
観客の飽きの感覚を、作者が捉えられているかに尽きる。

つまり、作者が観客になれているか、
で決まる。


第一稿のときは出来ていても、
再読するときやリライトを繰り返したとき、
この感覚を消失しやすい。
新鮮でないと飽きの感覚がわからなくなってしまう。

それで、A前提でBCDを書き込んでしまい、
まだAを味わいきれてないのにBへ行ってしまい、
観客が置いてけぼりになったりする。


つまり、飽きとは、十分に味わっているか、
という感覚と関係しているということだ。


十分に味わったあとまだ同じのが続けば飽きるし、
十分に味わう前になくなったら不満だ。

つまり、
「自分の提供しているエンターテイメントが、
十分に味わっているか」
という過大評価に振れても過小評価に振れてもいけない、
感覚的なものを持っていなければならないのだ。

自信がなくて、
自分の提供するエンターテイメントなんて大したことないですよ、
という話なんて全然面白くないし、
自信がありすぎて、
俺についてこいというけれど滑りまくっているものだって、
全く面白くない。

それを、「これはこの程度面白い」とわかる感覚が、
興味の味わいや切り替えのタイミングを絶妙にしていく。


料理と同じで、舌が正確でないと味見が出来ない。
観客に飽きられるストーリーは、
味見する舌がバカになっているわけだ。



ということで、
今どういうプレッシャーがあるのか、
それに飽きてないか考えよう。

ちなみに、
それが機能している間は、話はいくらでも引っ張れる。

余命○ヶ月の花嫁、
というのが新しかったときは、
何をしたって引っ張れたものだ。

そのプレッシャー下で、
プレッシャーを過度に感じたり、
忘れたふりをしたりすれば、
BCDをすぐに作れて、
しかもAを意識し続けられるだろう。


僕はなんとなく、
15分で切り替えるタイミングがやってくると考える。
「15分に一回」ではなく、
ひとつのブロックが15分で、
その中では何回ターニングポイントがあってもいいと。
ただ、1ブロックの認識が15分を単位にしている、
という仮説を立てている。
posted by おおおかとしひこ at 10:47| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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