私の妄想の中にある(オタクの独り言)
vs
他人と他人の間で共有される(三人称映画)
なぜずっとオタクの独り言を延々聞かされた気分になったのだろう、
と考えた。
主人公のモノローグがやたら多かったのもある。
そのモノローグを全部取っ払ったらどうなるだろうと想像する。
そうすると、そのストーリーの客観的描像が露わになる。
つまり、
「家出少年が銃を拾って逃げ、
廃ビルの屋上で消えた話」
だ。
ん?これの何がオモロイの?
この映画は、
この客観的描像を、主観的描像で歪める。
天気女、人柱、彼女との恋。
ただの日常の詰まらなさが、
恋で一変するのは良くあることだが、
それは「主人公の中」だけであることに留意されたい。
もちろん外から、
ウキウキしてたり浮ついてたりすることで想像出来るけれど、
楽園は彼の妄想の中にしかない。
この物語は、
客観的には拳銃拾得行方不明事件でしかないのに、
主観的には天気女巫女との恋と大冒険になっている。
だから、この主人公の独り言を延々聞かされている気になってくる。
お前にとってはそうかも知れないが、
東京の雨は鬱陶しいし、
お前は家出少年だし、
サイトで勝手に商売してるだけで、
都合よく探偵に拾われただけやんけと。
そう、つまり、主観的とは、
「お前の中ではそうかも知れないが、
客観的にはそうじゃないぞ」
というズレのことだ。
もっと端的にいうと、
すべっとるのや。
オタクの脳内滑りを二時間聞くから、しんどいのや。
統合失調症と同じやで。
映画は三人称だ。
他人と他人の揉め事を描く。
事実を共有してそれをどうにかしないといけなくなる。
描かれることは客観的、
つまり「その世界の登場人物には、
全員明らかで共有されること」
前提だ。
(この文法を逆用したのが、
「実は主人公は狂っていた」などの、
叙述トリックだ)
どんな事件や事実があろうとも、
そのことは誰もが知り得なくてはならない。
この物語における、
晴れ女、人柱、雲の上の世界、龍などは、
全部妄想だと言っても過言ではない。
この物語の登場人物が共有したのは、
雨が降り続けたことと、雪と、
拳銃拾得少年が追われて鳥居で消えたことだけだ。
その三人称的な世界に対して、
妄想が過ぎると、
傍目からは見えるのである。
つまり、
「世界」が主人公の中にあるのか、
「世界」が主人公の外にあるのか、
の違いだ。
前者を妄想といい、
後者を事件という。
映画は、事件の解決を描くものである。
つまり、
「天気の子」は映画ではない。
妄想の記録だ。
すなわち、オタクの独り言を延々聞かされていることだ。
「天気の子」というタイトルもよく分からない。
「晴れ100%女」を意味していないと思う。
「金床雲の上の草原」「彼女の晴れ、僕の雨」くらいエモくていいんじゃないの?
さて、
この映画のテーマはなんだろう?
あるわけないよね、
だって主人公の独り言なんですもの。
テーマとは、(客観的に)なし得たことで、
その価値を語ることだ。
彼女を守ったこと?
よく分からない。
主人公の独り言はなんか主張してたが、
それとストーリーとが関係ないような気がした。
主張はテーマではない。ここでは繰り返さない。
「世界」はどこにあるのか?
「そこ」だ。「ここ」ではないのだ。
「ここ」には私しかいない。
「そこ」には他人や見知らぬ人がいる。
物語とは、
私の何かを描くことではなく、
他人や見知らぬ人と私との、何かを描くことである。
大量の主人公のモノローグの無い新海監督作品なんて牛の入ってない牛丼ですよ
あと作中で実際に現象が起こったら普通妄想とか言わないと思うのと
映画っていうのはこういう物だって理屈が硬すぎませんか?