タイピングカテゴリで整理して思ったのだが、
書く持続時間(集中力)ってどれくらい持つ?
つまり、他のもの(スマホとか)に気をとられるなく、
白紙とペンだけの世界に、何時間居られる?
僕は手書きなら、最低でも一時間は余裕で、
書くことがあるなら2〜3時間は別世界に飛んでいる。
(だから気がつくと夜になっていてびっくりすることが良くある)
記録でいうと13時間(間トイレ休憩すらなし)、
というのは覚えていて、
これは高校生の頃の体力があった頃。
でも今でも数時間は全然あるし、
休憩挟めばまた数時間、とかは余裕。
ただし、休憩は時間が経つほど頻度が増える。
15分とか30分で休憩挟むようになってきたら、
もう頭の中の蓄積がなくなってきたんだなあ、
と思い、
それでもひねり出すか辞めどきかを判断する感じ。
勉強でいうと、
京大の入試は二時間半単位なので、
この間集中力が持続するのは当たり前だけど、
ほとんどの人は出来ないらしい。
逆にいうとこれだけのスペックがない人を、
最初から弾いている入試なわけ。
勿論一点突破だけを考えずに、
ああでもないこうでもないと、
いろんな角度から眺めることも、
この集中には入っている。
飽きた、疲れた、まで、何分何時間持つのか、
みたいなことだ。
僕は手書きならば一時間は余裕で、
ほっといても数時間は可能だ。
タイピングはそこに追いついていない。
薙刀式ですら30分が単位で、
調子が良い時でも一時間かなあ。
脳か指か目か姿勢か、
とにかく何かが問題なのだ。
デジタルは記号的になり過ぎていて、
アナログの自由さがないことも、
思考の飛躍を邪魔しているかも知れない。
僕がデジタルは人を幸せにしない、
と常々言っているのは、
デジタル設計者がこの集中力を常時してないだろ、
と思える作りになっていることで、
小一時間作業程度しか見てないだろ、
と思うことがよくあるからだ。
この集中力は上がるのだろうか?
幼少の頃に決まり、
大人になってからは変わらないのだろうか?
僕はよく分からない。
最初からそうだったし、
限界が上がる感覚はもうない。
デジタルがない頃の企画会議は、
灰皿もそこにあったので、
白紙と白いホワイトボードを前に、
座ったまま何時間も話すことがあった。
タバコ休憩はなく、トイレくらいしかなかった。
スマホはない。インターネットはない。
テレビとラジオと本が全て。
テレビはつけない。雑誌は積まれていた。
ケータイはあったけど切っとくのがマナーで、
電話はデスクの人が付箋メモで渡すしかなかったし、
企画といえば電話を繋げないものだった。
親が死んでも抜けられない部屋だった。
僕はその「企画しかない部屋」で4時間も8時間も企画をしていて、
とても充実していたわけだ。
そんなのが週2、3回あったわけで、
強制で、そこから抜けるには企画が通るしかなく、
企画が通っても、またそこで集まって企画して。
それは一生続くわけで。
今若い人がそれを経験していないのは、
とても残念なことで、
そこまで毎日自分を追い込んだ経験がないと、
「まあどうにでもなるな」という経験と、
「ここからは不安、ここまでは確実」
の見積もりが出来なくると思う。
重ねていうが、
これにデジタル機器は追いついてこない。
そんな用途を想定していない。
だから僕は、タイピングを改良しているわけで、
それでも手書きを勧めるのは、
ここまでの集中力を、現在のデジタルでは鍛えられないからだ。
(僕は自分のサーフェスをネットに繋いでいない。
でもスマホは見ちゃうよね)
あなたの集中力はどれくらい?
勿論、出来は集中力に比例するとは限らない。
しかし、「練られた思考」だけが、
フィクションを傑作にする。
(「天気の子」の後半戦には、
科学的視点や社会的視点が足りていないこと、
即ち思考が練られていない、浅い出来であったことは糾弾した)
私は創作するとき25分集中、5分休憩を
連続して行い、最長で6時間ほど取り組みます。
ですが、集中できないときは15分ほどでリタイアしてしまいます。
波が激しく、できるときはできるし、
できないときはまったくダメです。
日々、もっと集中できないか、
自分をやる気にさせることができないか
試行錯誤しています。
もしかしたら経験も足りないのかもしれませんが
大岡先生は、自分をやる気にさせるスイッチはありますか?
日々やる気にさせることができれば、
それこそ毎日、長時間机に向かえるような気がします。