神の視点
組織同士の視点
人間関係の視点
人の内面の視点
それをどの視点から描くかは、
ストーリーが決めることかもしれないが、
作者がずらして選ぶことも出来る。
なので整理してみた。
4つほどあるかなと思った。
神の視点
カメラが俯瞰に上がればだいたいこうだ。
蟻の巣を観察するように、
全体を引いてみる視点である。
ある状況と点のような人があるだけで、
客観的な感情のない報告にも見えるので、
淡々としたオフビートを狙う時はそうやってもよい。
たとえば、
「プロポーズして振られる」というのをこの視点でやると、
とても冷静なものになるだろう。
「何回プロポーズしても振られる男」の話なら、
そういう視点があるかもだ。
あるいは、感情的になるあまり、
逆にスポーンとここまで離れることもあり得るだろう。
振られた時は宇宙創生のことを考える、
などの、とても近いことから大きな目線になることもあるだろう。
神は感情がない。
人が何をしようが関係ない。
その離人症的な感覚を表現も出来る。
「万引き家族」で、長男が捕まる時がこのアングルだったっけ。
オン(やべえ見つかった、オレンジ転がった、
どうしようこれから)のような複雑な感情ではなく、
「あ、捕まったな、オレンジ傷んだかな」
なんてオフになる感じを描いていた。
「クラウドアトラス」は神の視点らしいが、
興味が出なかったので未見。
組織同士の視点
戦争物とか、会社対会社とか。
人間は組織に属するから、
組織内のあれこれのことと、
外敵とのあれこれのことを同時に考える必要がある。
もっとも物語の中ではポピュラーな視点だ。
しかもカットバックして相手の事情も描き、
お互いの事情を知らないが、観客だけは双方の事情を知っている、
という視点が、ふつうだ。
それらの事情や文脈がぜんぶ分かった上で、
これから起こることを楽しむのが、
もともとの神の視点という娯楽かもしれない。
しかし今は神の視点はもっと高い目線のことを言うと思う。
ちなみに二者の組織ではく三者のみつどもえを描くこともあるけれど、
相手の内部事情を描くと訳がわからなくなるから、
みっめの組織は内部事情を描かないなどして、
整理されることがよくある。
個人の思いがこの視点で描かれると、
全能感を得やすい。
社長になりたいとか元帥になりたいとかヒーローになりたいとかは、
そうした願望だろう。
人間関係の視点
会社の中だけの人間関係とか、家とか、
一族とか、友達内だけのこととか。
身内の視点ということも出来る。
女性作家の得意分野。恋愛ものもここ。
会社や国を擬人化するとここの視点で描ける。
神をこの視点で描くとたとえばギリシャ神話になる。
カメラは2ショットや3ショットを捉える。
その場には最大でも7、8人しか発言しないだろう。
あとはいるとしても見守るだけになる。
映画は基本この視点と、組織同士の視点を行ったり来たりする。
身内の話と、敵や外の話が入り混じる。
人の内面の視点
私小説的な視点だ。
風景にモノローグが乗ったり、
詩的なカットになることが多い。
その人の見た目や一人で歩いたり、窓辺で考えるカットが多いだろう。
容易に想像されるように、
これは映画的物語を生まない。
一人芝居になるからだ。
この内面の視点に居続けてもストーリーにならない。
さっさと視点を人間と人間の間に据えなさい。
逆用すると、
「私はこの時こんなことを考えていたのです…」
と部長が突然ナレーションするなど、
変わった視点移動が可能だ。
この視点は「感情移入を生まない」ことに注意されたい。
作者自らの視点に近いが故に、
作者はもろ自分だと思い込んで書くから、
感情移入してるはずだと思い込むが、
観客にとっては「誰か別の人」でしかない。
つまり温度差がある。
モノローグを重ねたり詩的に語ることは、
その人の内面の表現であって感情移入ではない。
感情の同調や共感はするかもだが、
(知らない奴の知らない感情は同調しない。
「わかるー」でわからない範囲)
感情移入はしない。
感情移入は、
「そういう立場だったらこのような行動をするだろう。
その気持ちはわかるぞ。だからがんばれ、
その目的を達成するんだ」
と思うことだ。
モノローグをいくら重ねても、説明にしかなってなくて、
感情移入による物語の進行ではない。
それは視点が違うのだ。
もうひとつ上か、ふたつ上でやるべきだ。
その人の内面の気持ちが一文字もなくても、
その人の置かれた状況と行動や反応から推察するに、
この人のしたいことはこれで、
それは分かるわと「洞察すること」が感情移入である。
そして、もうみなさんご存知だろうが、
この内面の視点は、簡単にメアリースーを生む。
自分しか世界にいなくて、
他人からかまってほしいというインナースペースでしかないから。
作者のインナースペースと観客のインナースペースが違うことに、
作者が気づかないことが、
メアリースーの原因だ。
インナースペースを出さずして、
共有世界ベース、つまり人間関係の視点で進めるのが、
映画的物語の文法である。
(一人称で進められる小説はこの限りではない)
つまり、視点がどこにいるかを自覚することは、
何を書いているのかを自覚させる。
そして、テクニック的にずらすことが出来るなら、
それは冷静に狂気をコントロールできているってことだ。
だいたいは呑まれて気づかない。
脚本では一々カメラアングルは指定しない。
「万引き家族」の上の例も、
長男が捕まる、くらいしかト書きで書いていないだろう。
それを視点をずらしたのは、監督の手腕だ。
オンでばかり続いた息抜きに、
オフにすることはよくあるやり方だ。
厳密にいうと、
たとえば「三年後」というタイトルも、
実は神の視点だよね。
さてと。
セカイ系がなぜ面白くないかというと、
内面と神の視点しかないからで、
俺ツエー的な幼児的万能感が御都合主義しか生まなくて、
人と人の間の揉め事がないからで、
それが嫌いな幼児的な人が書いたり、喜んだりしているからだ。
2019年07月28日
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