2019年07月29日

最初は面白そうなのに、何故途中から面白く無くなるのか

これは本当によくある問題だ。
極論すれば「最後まで面白く書いてないからだ」
と言えるのだが、
では最後までトーンダウンせずに面白く書くには、
どうすればいいのか?

最初のトーンを、どう最後まで貫けるのか?


まず一つ言えることは、
「最初の面白さをそのまま最後までは使えない」
ということだ。

何故なら人は飽きるからだ。
あるものを面白いと思った時、
同じものを「次に」出されても飽きる。
もう一回同じのを出してきたら「他のはないの?」
となる。

つまり、
「最初は面白そうなのに、途中から面白くない」
のは、ただの一発屋であることを自覚せよ。

多くは出落ちだろう。
ロケットスタートして失速のパターンだろう。

で、じゃあそうならないためには、
「面白いものの次に、別の面白いものを用意すると良い」
という原則が導かれる。
しかも飽きを考慮するならば、
「最初の面白さと違う面白さを、次々と用意する」
ことを考えればいいということになる。

よし、わかった、ABCという三つも面白いものを思いついた、
これを書くぞ、となったとしよう。
それでもまだ面白いストーリーにはならない。

なぜ?

スプレッドだからだ。
全く違うABCが並ぶのは、
棚に並んだディスプレイとしては面白い。
遊園地のアトラクションとしては面白い。
順番がとくになくても、どの順から行こうが構わない。
「目の前に素敵な選択肢が広がり、
自由にチョイスして良い」
という面白さだということにきづきたまえ。

それはストーリーの面白さではない。

ストーリーの面白さとは、
「それらがその順に並んでいる必然性」
の面白さだと言える。
「Aの次に必然的にBの面白さになり、
その次に必然的にCの面白さになる」
ことがストーリーであり、
その必然性そのものがそのストーリーの面白さなのだ。

遊園地のアトラクションは、永遠にストーリーの面白さにならない。
A: ジェットコースター
B: メリーゴーランド
C: 観覧車
としよう。
このときABCとなる必然性とはなんだろう?
「最初に凄いの行って次に落ち着き、
最後は雄大な気持ちに」
くらいのことでしかなく、
そこに必然性はない。

デートコースならばなくもない。
吊り橋効果から親密性を詰めて、最後は告白だ。

なるほどその必然性はわかった。
じゃあそれが、オリジナルストーリーとして面白いか?
ということが、面白さの評価になるわけだ。

少なくとも、
「吊り橋効果から親密性を詰めて、最後は告白」
のストーリーはどこかで見たことがある。

だからこのストーリーは面白くない。

(定番ストーリーなら役割を果たすが、
オリジナルストーリーではない。
定番は安心で、オリジナルはワクワクやドキドキの新規性だ)


ABCに、どう新しい必然性のある繋がりを作れるか?
が、新しくて面白いストーリーということなのだ。

これは、個別のABCとは次元の違う、
メタレベルの創作であることが理解できるだろうか?
AがいいのかBがいいのかCなのか、
ということと違う次元のことなのだ。

西武遊園地の観覧車がいいのか、
ディズニーのシンデレラ城がいいのか、
はたまた街を見下ろせる鉄塔の上がいいのか考えたとしても、
「吊り橋効果から親密性を詰めて、最後は告白」
の必然性の中に乗っかれば、
ただの「同じストーリーのアイテム違い」
でしかない。

その必然性が面白くないならば、
それは平凡なストーリーに過ぎないのだ。

わざと風魔の10話の告白に話を近づけようとしている。
これは「吊り橋効果から親密性を詰めて、最後は告白」
のストーリーではないの?
たしかにそうだけれど、そこに重ねられた個人の事情
(姫子が思いつめていること、夜叉姫と話し合いたいことや、
「強い善人」という難題に悩んでいること。
一方戦いは夜叉八将軍全滅でひと段落して、小次郎は姫子を好きなこと)
こそがオリジナルの必然性だ。

つまり必然性は、何重にも重なり合うことになる。
告白までのデートの流れは定番だとしても、
個人の事情のストーリーはオリジナルで、
だからここが強いのである。


AとかBとかCとかの点の面白さは、
あくまで要素に過ぎない。
要素同士の関係性とその変化、
必然性の連鎖こそがストーリーの正体だ。

ABCの面白さの次元とは、
別の次元の面白さ、メタの面白さが、
ストーリーという必然性の面白さなのだ。

(必然性のない面白さ、シュールもジャンルとしてはある。
しかしシュールが持つのは5分だろう。
10分もシュールをやったら分裂症だ。
逆に知性とは、メタレベルの関係性や必然性を感知することに他ならない。
人工知能に書かせた小説が、
このメタレベルの必然性を持たず、
たたABCを並べている分裂症に陥っていることを体験してみよう)


この必然性にはパターンがある。
事件の発生、展開、解決だ。
そしてそれを通じた主人公たちの変化(多くは成長)が、
必然的に起こるのを、
面白いストーリーと呼ぶと、僕は思う。
なぜなら、その良い変化こそが、
新しい価値=テーマを示すからだ。
(ここは個人によって解釈が異なるかもしれない)



さて。

「最初は面白そうなのに、何故途中から面白く無くなるのか?」
の答えは明らかで、
上のような必然性を、面白おかしく用意していないからだ、
と言えると思う。

AやBの点だけを思いつき、
それがどういう必然性をもって終結し、
AやBにどういう意味があって終わるのか、
まで一通り作ってから書かないで、
AやBを書き始めると、
たいていこういうことになる。

AやBは面白いぞ!
あとCやDを投入しよう!
そうすればあとは展開しながら考えよう!
なんならEやFもネタ帳から出せる!

と安易に考えるとこうなりがち。

そのメタレベルの、
何故、必然性、全体としての意味、
などが考えられていないとこうなる。

目先のことがストーリーではない。
全体の必然性がストーリーだ。


だからABあたりまでは点の面白さでカバー出来ていても、
必然性の面白さがいつまでたっても出てこないと、
「ストーリーとして面白くない」
という現象になるのだ。


たとえば設定だおれや出落ちは、
ABCのような点の面白さである。
それらがどのような必然性をもって展開(変化、組み合わせ)
していくか、ということがストーリーで、
それらがどのような必然性に落ち着くのか、
までがストーリーの面白さだ。

これが面白くない限り、
いくらABCが面白くても無駄なのだ。
並んでいるアトラクションに過ぎないからである。



先日設定資料集としては最高に面白い、
FSSのWikiを眺めていた。
これらの設定が全て設定だおれという、
最も偉大なる出落ちといって過言ではない。
ストーリーの何に使われるのか、
どういう必然が起こるのかについては、
この膨大な量に比して全くない感じがする。
少なくともこれより多い量の必然が必要だなあ、
とふと思い、
ただ設定だけが増えていく現象を見て気が遠くなった。
(最初はABCだけだったのに、
いつのまにかXYZに増えて、
気づいたらαβγや、イロハや、一二三なども増えている)
設定を増やすことはストーリーを書くことではなく、
必然性を練って行くことがストーリー作りである。

ああ、FSSは完結しないんだなあ
(少なくともエルガイムの発展形のようには)
と少し悲しくなってしまった。



ABCばかりを書いてやしないか。
それらをどう変化させ、必然性をもって展開し、
どこに帰着した必然なのか、
それら全体にどういう意味があるのか、
それが出来てないのに書いてもしょうがないわけだ。

もちろん、それらが全部できるのは、
ディテールも含めたすべてが揃ったときだ。
だから絵に描いた餅なのだ。
しかし餅は絵がないと出来ないし、
絵の通りに出来るべき。

だとすると、絵を描いてまずそれが作る意味があるかどうかが、
議論されるべきだ。

プロットをたくさん書くのには、
このような意味がある。

(絵を描かずに餅をつくると、
餅の形をしてない何かにしかならない。
それが天才的によい確率は天文学的に低いし、
再現性がないだろう)



最初は面白そうなのに、何故途中から面白く無くなるのか。

途中までしか考えてないからだ。


そして、最後まで考えるということは、
必然性の連鎖を組むということである。

必然性とは、動機や行動や結果や推測や見積もりのことだ。

詰まらないストーリーでは大体どこかに、
「必然性がない」がある。
posted by おおおかとしひこ at 10:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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