2019年07月30日

「〜したい/したくない」は脚本に必要だろうか

作者の言うところの「〜したかった/したくなかった」
というのは、必要だろうか?
これは主観的な見方であり、
客観性を失う危険な発想だろうか?


あることをしたいとする。
大きくこうしたいから脚本を書き始めたのかも知れないし、
ある場面でこうしたいからこう書いたのだとする。

逆に、こうはしたくないと思って書き始める場合もある。
そんな詰まらんものはつくらんぞ、
という高潔な思いから書き始める場合もあれば、
ある場面でそれじゃ普通だからこっちにしよう、
なんて選択もしたりするだろう。

それは作者の独善、独断、思い込みか?
それとも嗜好、作家性、オリジナリティ、センスか?

難しいところだ。

客観的判断のとても難しいところであり、
自分がその枠の中にいる以上、
外から見た判断が出来ないところである。

で、他の人に判断を仰ぐと、
その人なりの感想や判断をするから、
その人の主観的なものに見えてしまうし、
じゃあもっと他の人の意見を聞いて、
平均を抽出しようとしても、
議論百出になり、何が正しいかわからなくなる。

その中のよく出る意見を拾い上げれば、
平均的な丸いものになるし、
少数意見の中に真実があることを見逃してしまう。
(大勢の意見が真実とは限らないことは、
ガリレオ裁判を見ればあきらかだ)

他人に意見を求めるのは、
他人に頼るためではないことに注意されたい。

水を浴び、目を冷ますためにあるのだと考えた方がいい。


私にはこうしたい/したくないという個人的な思いが、
客観的に存在する。
それが、作品の面白さに直結している場合と、
面白くなさに直結している場合がある、
というだけのことだ。

面白い原因が、あなたの個人的な思いとシンクロしていると、
あなたのセンスやオリジナリティだと褒められて、
詰まらない原因がそれだと、
独善的と言われるだけのこと。

あなたの個人的な思いは必ずある。
それが結果的に昇華しているかどうかなのだ。


で、個人的な思いや趣味嗜好がない人が、
それをどう思うかを客観的に見るべきだ。
同好の士は必ず褒めるからそれはどうでもいい。
褒められるから同好の士で固まる、
というのでは進化発展はない。

あなたの嫌いな人、センスの合わない人、
あなたのしたいことを止める人、
あなたのしたくないことを強制するような人に、
あなたの作品がどれだけ効果的に響くのか、
客観的に観察できるかなのだ。

とてもメタ視点が必要だ。
作品内の視点よりも一段二段上の視点である。

あなたとセンスの合わない人を、
仮想敵として頭の中に作り出してみよう。
その人を説得して感動させるためにはどうする?

そこまで考えた上で、
あなたのしたいことやしたくないことを、
上手にそれに活用しているなら、
それは機能する。

そこまで考えずに、
ただしたかったから/したくなかったから、
のものを作っても、
やっぱり独善的と言われるだろう。


同好の士だけのお山の大将になるか、
全ての人に開かれた傑作を書くのか。
そこはあなたしか判断できない。



で、
「自分の好みではあるのだが、あんまり面白くない部分」
が発見できて、
「面白くさえあれば、好みでなくても修正する」
が出来るようになると、一段実力が上がると思う。

それは大衆に迎合すこととは違う。
自分をも納得させる面白さをつくらないと、
その修正をする意味がないからね。


作者の「そうしたかった/そうはしたくなかった」
なんてどうでもいいのだ。
それは心の内に秘めるべきことで、
面白かったかどうかが問題だ。

詰まらなかったら、それ以上に面白いものを、
次に作るしかないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。