僕はどんなプロットでも、
最後まで書くべきだ、書かねばならない、書け、
とこれまで強調してきた。
それは、発想というのは、
ほっておいたらカオスになるからだ。
グノーシス主義や初期キリスト教を調べていて、
ふと異端審問や十字軍のことが気になり、
テンプル騎士団の名前を見た瞬間、
FSS(ファイブスターストーリーズ)
のことが気になり始め、
結局Wiki全ページ再確認してしまった。
エルガイムから35年くらいになるか。
天才永野護の、膨大な妄想の記録として興味深い。
それだけの期間をかけて、
何度も収束しかかっては発散しているように思えた。
エルガイムの前日譚だけの発想から、
天照とラキシスの再会後の世界の発想、
運命の三女神の発想へ。
騎士とファティマと人間の三つ巴から、
ダイバーも入れた魔導大戦への発想へ。
スタント遊星のサタンとか、ドラゴンとか、
神との戦いの発想へ。
大過去の超帝国やナインから、
詩女やGTM、超人類の発想へ。
ブラッドテンプルとか言ってた頃が懐かしい。
既にFSSの妄想は、
手がつけられないほどに広がっている。
恐らく作者も全貌を把握していまい。
マニアでついていけていて、かつ全貌を暗誦出来る人は、
日本に何人もいないかもしれない。
(何百人もいたりして)
これは普通の意味での物語形式に収束しないだろう。
神話のような、断片だけが存在する、
全貌をパズルのように組めない形のものになるだろう。
我々の現実と同じように。
我々の現実でも、そのようなことが起こっている。
たとえば日航機墜落事故では、
いまだに全貌が把握できていない。
会社の全貌を把握してないサラリーマンはたくさんいる。
日本という国家や、世界情勢の全貌は理解でききれない。
で、
物語とはなんだろう、
という問いになる。
僕は、この完結しない現実や妄想と、
対比されるべきものであると考えている。
つまり、
「完結するもの」
「世界はここからここまでであり、
この世界で完結した、確定的な意味のあるもの」
が物語であると考える。
そうでないものにも「物語」の名前がついてるからややこしい。
千夜一夜物語は完結して意味のあるものではない。
「はじめの一歩」は完結しそうにない。
「北斗の拳」は完結したけど完全にピークアウトだ。
「ガラスの仮面」はどうなるんだろう。
「ファイブスター物語」は物語とはついたものの、
完結した物語の形式を取らないだろう。
逆に、映画とは、
これらに比べれば「完結した短編」なのだ。
いざ書くとしたら膨大で気の遠くなる量が必要なのだが、
膨大な世の中の物語的な何かに比べれば、
わずかなる短編なのだ。
だからこそ、
「完結する短編」の面白さを、
脚本では追求しなければならないのである。
エントロピーは増大する。
ほっておくとカオスは増える。
天才永野護が育ててきた妄想は、
カオスとしか言いようがない。
これらを、「一から順に整理して最後まで一本の糸を通し、
それがこういう意味があったのだと示す」
ことは出来ないと思われる。
整理しようとすればするほど、また別の発想に至るだろう。
そうして枯渇した時、整理しきれずに凍結するだろう。
カオスは増大する。
物語を書くという行為は、
それを「整理してひとつの完結した世界」に、
次元を落とす行為のことを言う。
やってみればわかるけれど、
完成した原稿の量より、
調べた資料や下書きやメモや第○稿のほうが、
遥かに多い。
つまりそれって、それだけのカオスな情報が、
原稿という形に「整理された」ということなのだ。
逆にいうと、
発想をすることはカオスに発散することである。
どれだけ好きなことを考えても良い。
だから楽しい。
物語を書く行為が苦しいのは、
それらを論理的に美しい形に整えることの苦痛に近いかも知れない。
自由を形に嵌め、余計な所を切り落とし、
必然性の破綻がないようにし、
足りない部分は嫌々ながらも埋めなければならない。
掃除するより散らかすほうが簡単で快楽だ。
散らかしたものを、
新しい形に整理整頓するのは難しくて苦痛である。
脚本を書くという行為は、
この苦痛を48000字続けるという行為である。
そして、どれだけ整理されたジェットコースターになっているかを、
競うのだ。
完結した作品を、何本も書きなさい。
プロットは100本でも1000本でも書きなさい。
「完結した整理」の仕方を勉強しなさい。
その勘所が分からないと、
発想のカオスに呑み込まれる。
物語とは、整理をすることだ。
たとえば日航機墜落事故で一体何が起こったのか、
完全版の本が出たことを想定しよう。
そこに書くべきことを整理することが、
ホンを書くということなのだ。
2019年07月30日
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