2019年08月01日

「君の名は。」と「天気の子」の脚本上の比較論

僕は「君の名は。」のシナリオは大変面白いと思っていて、
「天気の子」のシナリオは大変詰まらないと思っている。
彼我の差はどこにあるのか考えてみる。


まず似た構造から。
両者とも、

男女の出会いから、
冒険して無理やり引き裂かれ、
何年かの後再会して終わるという、
ボーイミーツガール型の典型構造
(しかし何年経っても心変わりせず、
向こうもこちらを想い続け待っている前提)
と、
世界の破滅とが絡んでくるセカイ系的構造

は共通している。

男はただの男で、女に巫女的な役割を与えているのも共通。
(男にとって女は神秘だからしょうがない。
セカイ系の元祖?「最終兵器彼女」でも同じだった)

周囲の登場人物がなんとなく協力してくれる、
メアリースー的な御都合主義の道具になっているのも、
大体似ていると思われる。


脚本上は関係ないが、
RadwinpsのPVかと見紛うほどの、
曲と絵のシンクロも表現上の同一性だ。

新海の作家性は、「ほしのこえ」から変わらぬ、
「男女が引き裂かれるせつなさを、
いい感じの風景に乗せてポエティックに描き、
いい感じの曲とシンクロさせる」
だからかも知れない。

いい感じの風景が、
「君の名は。」では東京と田舎の対比や彗星、
「天気の子」では雨の東京や天上界、
という違い程度で、大きくはおなじ。


異なるところはなんだろう?
以下ネタバレに触れます。











僕は、「君の名は。」で一番面白いと思ったところは、
「入れ替わりの時間軸がずれているところ」
のアイデアだ。

男女入れ替わりの元祖は「転校生」だろうけれど、
それは時間軸が同じだった。
そこにスマホなどの装置を使って、
「時間軸が異なるところとの入れ替わり」
を持ってきたところにオリジナリティを感じた。
(よく考えれば「ほしのこえ」の相対論的遠距離恋愛から、
発想できるかもしれない)


だから、彗星が落ちる日にむけて、
「救わなければならない」と行動する力強さが、
とても面白かった。

タイムパラドックス的な面白さ、
彗星というビッグビジュアル、
田舎の街が壊滅して湖になっている絵も、
非常に良かった。

つまり、「時間軸がずれている」という、
小さなフィクショナルなワンアイデアを、
十二分に映画的カタルシスのあるビッグビジュアルにまで昇華したところが、
評価に値すると思う。


「天気の子」はどうだったろう。
オリジナルの核はどこにあるか。
「100%晴れ女」の部分だろう。
あるいは、
「晴れ女は人柱である」までを含むかもだ。

それがビッグビジュアルであるところの、
天上界や水没した東京まであるところは、
構造的に似ているかのような気がする。

しかし「君の名は。」はタイムパラドックスの面白さがあるが、
「天気の子」はそれがない。
タイムパラドックスと「彗星落下から非難させる」のスケール感に比べて、
「イベントを晴れさせる」「拳銃所持で追われる」
程度のスケールの小ささが、面白さのスケール感の違いだろう。

もちろん、スケールが小さいから面白くないわけではない。
半径3メートルでも面白くさせる映画はたくさんある。
「スケールが小さいわりに、
雨以外は自主映画でも撮れるレベルの、
薄いストーリーだったこと
(警察に追われてラブホテルに避難)」が問題かも知れない。

あるいは、
スケール感の基準になるのは、
「主人公の行動の正当性」かもだ。

「街を避難させる」という大きな行動対、
「彼女に会いたくて、
鳥居に向かえば会えるかもという根拠のない幼い発想のまま、
御都合主義の銃をぶっ放す」
の正当性の差が、
彼我の差になるかもしれない。

どちらも小物主人公ではあるが、
動機の正当性が真逆だ。

勿論、主人公は社会のために働かなくてはならないわけではない。
前者の立派さに比べて、
後者の鳥居に向かう正当性が低すぎるなあと感じるわけだ。

まだ、
「鳥居を潜れば彼女に会える」ことが、
「一度それが出来たからもう一度出来る」と、
確信があればそこまで幼稚でなかったかもしれない。

あるいは、
「偶然拾った銃」などなく、
ただ彼女に会いたいがための中学生の暴走であった方が、
応援できたかもしれない。


感情移入とは、
「応援できる」度合いで決まると思う。

「君の名は。」は彼女を救い、
彗星が落ちる街を救うだけの、
応援したさがある。

「天気の子」の、鳥居を目指して線路を走り、
廃ビルの中で格闘して銃を撃つことには、
応援したさがあまりない。

まだ「彼女に再会できれば、東京は晴れて元に戻る」
という設定があれば、
「東京を救うため」という大義名分があり、
それを知らない人を振り切って鳥居にたどり着く、
スペクタクルになったかもしれない。

しかし設定上はそうではなく、
結局これは人柱の巫女を私情で奪還したが故に、
世界を破滅させた男の話で、
「もともと世界は狂ってたから」と言い訳する男の話だ。
そんな身勝手なやつに応援したさがあるだろうか?
ピカレスクロマンでもなんでもないではないか。
「あえて世間では悪と言われることをやり、
後ろ指はさされたとしても大きな目から見れば正義をなしているから、
たとえ死んでも構わない」ということの、
真逆だ。


物語はアクションであり、
アクションは動機と目的である。
さらにいえば、
目的の妥当性、正当性だと思う。

ただ悪い行動をする人に感情移入できないのは、
そこに妥当性や正当性がないからではないだろうか。
同様に、
「なぜそこまで必死になっているのか分からない」人を、
応援する気にはならない。
その人なりの正義はもちろんあって、
でもそこに説得力があるかどうかだろう。
妥当性という言葉を使ったのはそういう理由。


彗星落下を知り、避難させようとする人には正当性があるから、
その実現には大義名分が成立するが、
確実でない理由に対して走り、
何故か拾った拳銃で武装して、
東京の災厄をどうしようとしてるのか分からない人は、
大義名分がないので、
応援する気がしないわけだ。

警察署を脱出して鳥居に向かうまでは、
動画としてのアニメーションの出来はとても良く、
意欲的なシークエンスではあった。
しかし御都合主義と不透明性において、
「よし!がんばれ!鳥居に向かえ!」
と乗れないものであった。


彼の動機は、
「晴れて欲しい?」の問いに、
「うん」と答えてしまった後悔だろうか。
そこもよく分からない。
体が透けてしまった彼女を今更救えても、
人柱でなくなるのか、元の肉体に戻れるのかも不明だ。

もし、

「あの鳥居さえ潜れば天上界に行けて、
かつ彼女を天上界から取り戻して、
鳥居から下界に戻れれば、
彼女は人柱でなくなり、
そのかわり晴れず、東京が水没する」
こと(これをPとしよう)

が作中で根拠がある状態で、明示されているとしよう。

「だから彼女には会いに行くべきではない。
彼女は人柱として天上界にあがり、東京は晴れるべきだ」
と大人が言ったとしたら、
「それでも俺は彼女に会いたいんだ!」
と、走り出す青春の暴走は、
見ていて爽快だったかも知れない。
誰もが世界より彼女が大事、という瞬間はあるからね。
(でも東京水没の責任は因果応報が来なければいけないが)


しかし、Pが明示されていない状態で走り始めたので、
全部が御都合主義に見えるんだよね。

鳥居を潜って彼女に会えるとは限らない、
彼女を天上界から取り戻せるとは限らない、
彼女の体が元に戻るとは限らない、
彼女が人柱の運命から逃れられるかも分からない、
晴れずに東京が永遠の雨かどうかも分からない、
そもそも鳥居までたどり着けるとは限らない、
そのどれもが不定の状態で、
なんの確信もなく走り、
なぜかそれらが全部解決したこと
(探偵の愛人やイケメン弟のタイミングのいい登場や、
都合の良い銃)が、
御都合主義に見えるわけだ。


勿論、
「君の名は。」でも、
なぜ街を完璧に避難させられたのかをきちんと描いていなくて、
そこは御都合主義だなあと思った点は、昔の批評でも指摘した。

しかしそこは結果をボカすだけであり、
動機や目的は明確だったので、
それに対する減点作業にしかならなかった。

「天気の子」のそれは、
動機や目的が明確でないままだから、
脚本として0点スタートなのである。



勿論、Pを一個一個説明するのはシナリオとして野暮だ。
だからそれを上手に設定しなければならないのだ。
寺の天井の絵も、占いババアの戯言も、
明示的設定ではなく、
「昔から伝えられていたこと」でしかない。
つまり、
「ラピュタはほんとうにあったんだ!」
が足りていないということかもしれない。



シナリオは常に焦点を絞るべきであり、
焦点が一つになったとき、
最も強くなる。
Pが明示されて、
それでも走れ!って一つになったとき、
最も強くなる。

Pかどうかも分からずに走っているから、
私たちの頭の中ではいくつもの「?」が渦巻き、
ご都合で解決している様に、
作者の甘さを見て取るわけだ。
ぜんぶ願望やんけ、と。


あとで知ったのだが、
ヒロインの家は貧乏という設定なのだそうだ。
そう見えてなくてびっくりした。
ずいぶん内装が可愛かったけど?
手作りのものやレトロ家具のデザインが良すぎて、
「こだわりのあるいい生活」にしか見えていない。
ポテチチャーハンだって美味そうだったし。
そのへんの、
「表現しようとしたことと、表現されたこと」
の乖離が激しかったように思う。



他にも差はあると思うけれど、
一番の相違点を比較してみた。


僕は記号論でない宗派なので、
具体から意味を読み取るのが映画だと思っている。
その具体が記号的すぎることが、
具体を泥臭くやる宮崎アニメと新海誠の作家性の違いかもだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:24| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たびたびコメントしてすみません。

応援したくなる度合いについての指摘、全く同意です。ただ、天気の子については応援したくならない主人公像を新海監督が意図的に作っているのが話がややこしくなると思います。

インタビューとかどう読んでも、新海監督は正しいとされる事に価値を置く(そして前作で自分をディスった)観客に当て付けるために、わざと徹底的に間違ったことばかりする主人公を造形したと思われます。

その正しくなさをして批判される事は、作品としての失敗なのか作り手としてはしてやったりなのか、判断に苦しむところです。

個人的にはバカじゃねーの?と思いますが。
Posted by YAS-E at 2019年08月01日 13:53
>YAS-Eさん

ああ、そういう文脈があったのか。ありがとうございます。
そんなハイコンテキストは作品に不要と考えます。
裸一貫で人前に出ないとね。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年08月01日 15:27
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