神話や伝承を例に取ろう。
これらは、整理されていない。
神話や伝承は、文字のない時代に出来た。
したがって口承だ。
一人が一人に伝え続けたのかというとそうではなく、
(語り部のような職業はいただろうが)
複数の人が伝えたと考えられる。
その人が移動すれば、別の場所へ伝播しただろう。
人の伝承は変形する。
伝言ゲームをやればわかる。
仕事の連絡はなぜうまくいかないのか。
それは、「それぞれの理解が違う」からである。
それぞれが理解しているところとそうでないところがあり、
人によって解釈が異なるということだ。
ただでさえ人は都合のいい部分は拡大して、
都合の悪い部分はないことにしたがる。
伝言ゲームは、どこを拡大してどこを隠蔽したか、
ということのシミュレーションが可能だ。
変形を嫌い、韻文形式で伝承する場合もあっただろう。
歌にしておけばそうそうは変化しないからだ。
とはいえ、何年前もの歌を歌詞カードなしで歌えないように、
歌すら変形の可能性はある。
あるいは、昔のヒット曲を歌う往年の歌手が、
その歌を歌いすぎたのか、
オリジナルと違う節回しになっていることもよくある。
さて。
口承の特徴はこうだ。
複数の人(ルート)による、伝言ゲームだ。
容易に想像できる通り、
これらは複数の形でオリジナルから変形していく。
たとえば武術を見ればわかるが、
型があったとしても分派に分裂する。
長年分派に分かれていると、
同じ型でも全く動作や解釈が異なってくる。
そもそも言葉がそうだ。
複数の人の複数の伝承は、
方言や仲間うちだけの隠語、ローカルルールを生んでいく。
で、神話や伝承文学に戻ろう。
結果、複数のバージョンがあるということになる。
文字が発明されたとしても、
印刷技術を待つまで、手写しであったことを想像しよう。
つまり活字が出来るつい最近まで、
「オリジナル」という考え方すらなかったかもしれないのだ。
ギリシャ神話ですら、
伝承により複数のバージョンがある。
記紀神話は比較的初期にオリジナルが保存されていて、
ノータッチが貫かれたので保存状態がよい。
(しかし複数の改竄箇所が指摘されている)
桃太郎や浦島太郎においては、
何十ものバージョン違いを集めることができる。
神話や伝承は、こうした複数のバージョンから、
もっとも妥当だと思われるものを、
誰かがひとつにまとめたものが、
大体は正編となっている。
しかしその誰かすら複数いて、
誰々版といった違いがあったりする。
今原始キリスト教を調べているのだが、
キリストの言行を記録したものが、
複数人バージョンあり、
(「ルカ伝」とか「マタイ伝」とか)
しかも分裂した各派キリスト教によって、
重んじるものや解釈が異なるという。
なるほど、
仏教の宗派も色々あると思ったが、
キリスト教も一枚岩ではないのか。
複数のバージョンがある神話などを見ていると、
整理されていないエピソードがちょいちょい出てくる。
現代の物語の常識では、
ここ意味わからんから切るべき、とか、
なんの伏線にもなってないからいらない、
みたいな部分が散見される。
しかしそれらは、「伝承されてきた形」としての価値があるから、
改変はされないのだろうが。
さて。
つまり、
「昔の物語」は、
複数の人による複数バージョンの伝言ゲームの果てのものしかない。
だから、混乱している。
主人公の解釈すら異なり、
宗教戦争になっている。
(キリスト教の異端審問は、
キリスト教の内部で起こったことだった)
そもそもイスラム教とキリスト教は、
ユダヤ教の分派だ。
つまり、
放っておけば、物語は拡散し、発散してしまうのである。
現実と同じようにである。
印刷技術は、これを原典ひとつにしようとした、
人類の偉業なのかもしれない。
(まあ版によってバージョンが異なることもよくあるが)
さて。
つまり、私たちが書く物語とは、
発散しない形での収束なのだ。
発散して、色んな人に色んな解釈をされて、
次代に歪んで複数の形に伝わるものではなく、
それが存在する限りその形を保存するのだ。
だから、
それは整理されていなくてはならないのだ。
発散して、各自の解釈によって歪まないように、
クリアで誤解を生まないような、
はっきりしたものである必要があるのだ。
それは勿論、
全部を説明しなさいということではない。
野暮なものはやめて、
洗練されたものであるべきだ、ということだ。
その洗練の仕方を競っている、
ということかも知れない。
つまり、あなたの書く物語は、
明治だろうが暗示だろうが、
整理された洗練である必要がある。
そこまで高めた独自性を、オリジナルな表現という。
2019年07月31日
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