僕が好きな20年くらい前のCMがあって。
事件現場を撮っている警察か報道のヘリ空撮映像1カット。
逃げる黒い車。追う1台のパトカー。
郊外のダンキンドーナツの前に車止まり、
犯人と思しき男が走り出してくる。
パトカー止まり、警官も飛び出る。
犯人、警官、店に突入。
犯人、ドーナツとコーヒーを持って走り出て来る。
警官もドーナツとコーヒー持って走り出て来る。
二人、それぞれの車に乗り、チェイス再開。
breaking newsみたいなコピーが入ったかも知れないけど、
入らなくても分かる意味の鋭さ。
最初に振られた役割、
強盗なのかなんなのか分からない犯人と警官。
(犯人は覆面をして銃を持ってたかも知れない)
それと関係なく、
人は一息つかないと生きていけないし、
それは犯人も警官も同じだ、
ただ立場が違うだけだ、
という人間の観察の鋭さ。
同じ面と、逆に正反対に違う面を同居させて、
人という存在を笑えるだけのユーモアを持ってくる、
実に素晴らしい切れ味だと思う。
似たようなアイデアに、
戦争している最前線で、
敵同士がクリスマスだけは休戦して、
お互いにクリスマスを祝い、次の日は殺しあった、
なんてやつがある。
お互いキリスト教じゃないと成立せんやん、
は野暮なツッコミとしよう。
人間同士は、
異なる面があるし、
同じ面もある。
それを上手に描くのが文学の役割だと思う。
気持ちは反発しているが、
立場上は呉越同舟を選ぶ、
などを描くことで、
人は完全には理解し得ないが共存する、
などを描くことだってできる。
これらが常識にならない限り、
「気にくわないやつを気がすむまで徹底的に潰す、または放逐する」
という中世の魔女狩りに戻ることになる。
最近の問題は、魔女狩りの炎上を恐れて、
スポンサーに配慮して取り下げる中間業者の存在、
という問題もある。
主語がなにかわからない。
魔女には人権があり、
たとえキモくても怪しくても、
害がなく、市民の義務を遂行していれば、
市民としての人権があり、
差別するべきでなく、
その人権は等しく守られるのが人権社会であり、
自由の保障された社会である、
という近代を、もう一度人類は勉強しなければならないのだろうか。
宇宙人法も異次元人法もロボット法もAI法も、
同じ原則に貫かれるだろう。
問題は人権を付与するべきか、
という議論だけに集中できるはずだ。
話が逸れた。
実は、物語の中心は、このことを描くのだ。
コンフリクトとはそういうことだ。
目的や立場や考え方や性格が違う、
全く別の人を前にして、
最初はぶつかり合うが、
その後どうするのかをお互い決めるのが、
コンフリクト=ストーリーである。
ある線引きをすることで和解するのか(日常の物語)、
お互い許せないとして殺し合うのか(正義と悪、または憎み合う物語)、
お互い好きな面を見つけて好きになるのか(ラブストーリー、友情もの)、
三種類ある。
後者二つが極端なやつで、
書きやすいかも知れない。
しかし大人の世界は一番目ばかりだ。
これを上手に書ける作家が、今足りてない気がする。
難しく書くことは出来るけれど、
誰にも分かるように易しく書くことが難しいと。
多様性が叫ばれて久しいが、
ズートピア以来、それを上手に物語性に持ち込んでいるのは、
なかなかないねえ。
どうしても差別意識や、異端忌避の無意識が働く。
宇宙人ものやスペースオペラでは、
黒人や移民が宇宙人にたとえられてきたが、
彼らとは戦争したり和解してきたり共存してきたはずだ。
宇宙人じゃなくて、黒人や移民やヒスパニック系やアジア人や、
韓国人や中国人やベトナム人のたとえ話だったのかと、
分かり、
現実で物語のように和解したり共存できるように行動できるのは、
いつの日だろうか。
相互理解を魂レベルでする必要はない。
ある目的のために呉越同舟でもよくて、
それを上手に描くことが、
現実問題の対処法のモデルを提供することだと思う。
(一番簡単な団結法は、仮想敵を作ることだ。
北朝鮮が今その悪役になっているのかね?)
物語の主人公のように行動した方が、
世界をよく変えられる。
そのような物語が、
物語の社会的機能だ。
で、そもそもそれを描くのに、
人には様々な面があることを上手に描くのは、
基礎中の基礎ということ。
ダンキンドーナツのCMは、
切れ味よくそれを教えてくれる。
2019年08月04日
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