2019年08月06日

フィクション舐めんな(「ドラゴンクエスト/ユアストーリー」評)

ネタバレせずに批評することは難しい。

久しぶりにビアンカに会えて良かった。
序盤の子供時代がもう少しあればよかったな。
「背中を任せられるヤツと結婚したい」
というセリフは最高だ。
僕はかつてフローラじゃなくてビアンカを選んだなあ、
って思い出した。

全員の気持ち、つまり全キャラクターと、
全プレイヤーを裏切る最悪のラストに、
フィクションの作り手として大きな怒りを覚える。
「we are little zombies」の幼児のような無知無能が今年ワーストだったけれど、
堀井雄二のシナリオの素晴らしさに泥を塗ったという意味で、
こちらの方が許せない。

フィクションとは何か?
「第四の壁」がキーワード。
以下ネタバレで。


フィクションとノンフィクションの差は何だろう?
つくりごとと、本当の差は何だろう?

何が嘘と本当の差をわけるのだろう?

嘘は本当じゃないことだろうか?
本当だけが本当か?
現実には嘘ばかり満ちているのに?


わかりやすくズバリという。

フィクションは、カメラ目線にならないこと。
ノンフィクションは、カメラ目線になること。


フィクションには、イマジナリラインがある。
舞台と客席をわける線のことをそういう。
舞台と客席は切り離されていることが、
フィクションの成立条件である。

これは作り手と観客の紳士協定だ。

この紳士協定を守る限り、
作り手はイマジナリラインを超えないし、
観客もイマジナリラインを超えないと。

フィクションの中の世界はあなたに危害を加えないし、
逆にあなたはフィクションの世界の進行に、影響を与えてはいけない、
という紳士協定だ。

演劇で考えればわかる。

舞台の演者は、その世界のそのストーリーのその役を演じているのであり、
あなたとは関係がない。
(ファンが演者に手を振ったり、
身内が演者になっているからといって依怙贔屓するのは、
イマジナリラインを超えた行為で、
フィクションの見方をわかっていない、非紳士である)
舞台の演者はあなたのことを知らないふりをするし、
あなたに突然水をかぶせたりしないし、
あなたの秘密を舞台でバラしたりしない。

逆も然り。
あなたは舞台に勝手に上がってはいけないし、
突然罵声を浴びせたり物を投げるべきではない。
(出来の悪いものなら構わないかもしれない)

なぜなら、
舞台と客席は切り離されている。

その紳士協定を守る限り、
フィクションは、特別なことを見せてくれる。
その紳士協定を守る限り、
その特別なことの中に、観客は意識として入ることが出来る。

それがフィクションの成立の最低条件である。


それを知った上での、メタな芸というものがある。
漫才師が突然観客に喋りかけたり、
映画の最中にカメラ目線になったりして、
観客と会話しはじめたりすることだ。
漫画のコマの隅にツッコミを書き込んだりするのは、
80年代に大流行した。

メタは、一見賢いように見える。
「フィクションという嘘をわかった、
その外の目線を知ってるぜ」のようにだ。

ところがそれは子供の視点だ。
「怪獣の中には人が入ってるんだぜ」
とか、
「プロレスは八百長なんだぜ」
とか、
「ほんとう」に気づいたかのように振る舞うことが出来るからだ。

これは「大人になったふり」の子供の視点だ。

ほんとうの大人は、フィクションの本質を知っているから、
紳士協定を守る。

ゴジラの中に薩摩剣八郎という名優が入っていると知っていても、
あれは東京に現れた巨大獣として、
その先の表現に集中する。
猪木の延髄斬りが決まるまで、それまでの組み立てを楽しむ。

それがフィクションの楽しみ方という紳士協定だ。


そこまでして見るフィクションに、何の価値があるのか?

フィクションにはほんとうが描かれているからだ。

フィクションは嘘の、架空の世界のことだが、
そこに描かれている性質は、ほんとうのことである。
見た目やガワは架空だが、
内容や人間の本質がほんとうなのだ。

嘘を使ってほんとうを描くのがフィクションであり、
シナリオであり、演技だ。
これをこのように見立てるという紳士協定を守ったら、
嘘なのにほんとうを描くのだ。

題材は嘘だ。だってフィクションだから。
世界は破滅しないし、天空の剣も存在しない。
しかしそのことを使って、
人間の本質的な何を描こうとしているのか、
そこがフィクションの肝心なのだ。


ドラゴンクエスト5の原作シナリオは、
じゃあどんな本質を描こうとしていたのか。
ノーブレスオブリージュである。

世界を救う力があるならば、
それをしようとしていた父の心がわかるならば、
それを継ぐべきだということだ。
そしてもうひとつ、
「背中を任せられるヤツがほんとうの絆」だということ。

これが嘘の世界で描かれているからこそ、
私たちは現実にそれを持ち帰ることが出来る。

糞みたいな仕事でも、一筋の真実を見つけて、
世界を救うなにかをしようとするし、
糞みたいな上司よりも、
背中を任せられる仲間と酒を飲み共に闘う。

大切なことはディテールではなく本質だが、
その本質は形をもっていない。
だからフィクションという嘘で形作るのだ。
パパスの思い、マーサの思い、
ビアンカや魔女に化けたフローラで。


一方ノンフィクションはどうか。
ノンフィクションはカメラ目線だ。
「あなたも参加しなさい」ということだ。
政治、バラエティ、ユーチューバーはカメラ目線だ。
あなたが参加することで保たれるからである。
本当の世界のことではあるが、
ほんとうとは限らない。
嘘で覆い隠されていて詐欺があるかもしれない。

つまり、
フィクションは嘘を使ってほんとうを表現する。
ノンフィクションは本当の世界のことだが、ほんとうと保証があるわけではない。

すなわち、
フィクションは、紳士協定の代わりに、
ほんとうを提供しなければならない。



堀井雄二の原作シナリオは、
フィクションの方法論で、
正義やノーブレスオブリージュや、
仲間との絆について描いたものだ。
それが8ビットだろうが今回のような素晴らしいCGだろうが、
嘘のガワである以上なんでもよいのだ。
描かれているほんとうが、
ほんとうであれば。


この愚策は、
この紳士協定を破り、カメラ目線にしてきた。

デッドプールが面白いと感じる、
中二レベルだ。

お前は紳士ではない。
紳士の世界から去れ。




「we are little zombies」は、
紳士協定も紳士も知らない赤ん坊の成金だった。
「天気の子」は、
全能感のまま部屋から出たことのない子供だった。
今回は紳士協定を破った犯罪者だ。

今回が一番作り手として罪が重いと考える。


脚本のクレジットは山崎貴。
糞オリンピックの開会式でも監督してろ馬鹿野郎。
護送船団方式の傀儡が。




ラスト10分前までは、
予想外の出来に驚き、
ビアンカが久しぶりに可愛いと思った。
有村架純の芝居はそんなに良くなかったが、
それをカバーする、CGのかわいさが良かった。

CGは特に背景が良くできていて、
日本のCGやるやん、て思う。
いけちゃんとぼくのCG制作費は、
実写制作費の10%だったから
(これを決めたのは僕ではなく財布係だ。
僕はもう倍は欲しかった)、
しょぼいとか散々言われたけれど、
きちんとやれば日本でもきちんと出来ることを証明したという点で、
このCGは日本映画史に残すべき偉業と断言する。

CGスタッフはみんなドラクエで育っただろう。
国民的コンテンツに総力をかける、
執念や愛情が感じられ、
僕はここには拍手を惜しまない。
ラスト10分前まではね。


第四の壁という演劇用語がある。
演劇はたいてい「部屋の中」という設定だ。
四方が壁になっている。
忠実にセットを作れば壁は4枚。
しかし舞台と客席の間の壁だけは存在しない。
物理的には存在しないが、
紳士協定では存在することになっている。

紳士協定を侵さない限り、
観客は密室の中で起こっていることを目撃できる。


なぜそのクライマックス、
全てが解決した瞬間、
第四の壁を破り、
カメラ目線にならなければならないのだ?
このまま門を閉じ、
故郷に帰り、父母の墓に参り、
みんなで祝杯をあげて何が悪い?

今時珍しい、共同体という人間たちを描ける、
ビッグチャンスだったではないか。

ナウシカやラピュタには及ばないものの、
堀井雄二のシナリオをうまく落とし込めた、
佳作に成り得た。
ファイナルファンタジー実写化みたいな糞の、
100万倍良くできていたではないか。


山崎貴はドラクエをしたことがないそうだ。

フィクションをなんだと思ってる。

じゃあリターナーの設定だけ渡して、
リターナーを見たことないやつにリメイクさせるぞ?

フィクションをやる力のないやつは、
オリンピック開会式のノンフィクションでもやっとけ。


今から再編集しろ。
ビアンカとの子供時代の冒険は、新作せよ。
もう少し足せば、ラピュタに匹敵したかも知れないのに。


なんという愚行か。
サザエさんやドラえもんがクライマックスでカメラ目線になって、
「何フィクションに夢中になってんの?」
ってことと同じことをしたんだぜ。

紳士たらざる者は、フィクションより去れ。
posted by おおおかとしひこ at 00:41| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「見た目やガワは架空だが、内容や人間の本質がほんとうなのだ。」がすごく腑に落ちました。

以前「こえ恋」という漫画がテレビドラマ化されたとき、俳優なので見た目はむろん漫画と違いますし話の流れも原作からは変わっていたのに、とても楽しめました。
それは、このキャラがこのシチュエーションにあったら、絶対こういう言動をとるだろう、という期待を外さなかったからだと気づきました。

もちろん共感を妨げない程度のクオリティは必要ですが、どれだけガワの再現性が高かろうと中身が伴っていなければ、コスプレイヤーが決めセリフを朗読しているほうがマシ、ということなのでしょうね。
Posted by こと at 2019年08月10日 17:17
ことさんコメントありがとうございます。

コスプレイヤーが決め台詞を朗読しているのが聞きたければ、
それこそ今真っ最中のコミケに行けば良いのでしょう。
また、究極のコスプレイヤーショウには、
伝統的にタカラヅカのレビュウがあります。
これだけで成り立たないのは、
やはりコスプレ朗読は金にならず、
物語にお金が払われるのだと考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2019年08月10日 22:51
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。