すぎやまこういちのテーマ曲が大スピーカーで流れる。
僕はそれだけで毎回鳥肌が立ち、反射的に泣いてしまう。
それくらいあの曲が好きなんだよね。
なんでだろう。
あの音楽が、物語を信じ切っているからだと思う。
世の中が悪に支配されている。
それを倒すのは運命に選ばれた人。
その苦労や大冒険を共にすること。
それは中世ファンタジー世界観での、
剣と魔法とモンスターの世界。
太古の昔から語り継がれてきたパターンの、
新しいバージョン。
古典オペラの、新しいバージョン。
だから音楽そのものは王道の交響楽だ。
(オペラに比べて)映画という新しいメディアにジョンウィリアムスがいるように、
ファミコンという新しいメディアにすぎやまこういちがいた。
フロンティアのメディアに、
最初に現れた王道が、
ジョンウィリアムスや、すぎやまこういちだった。
それらの音楽は、
決して物語を斜めに見ない。
所詮はつくりものだとか言わない。
架空の悪に怒り、架空の正義をなすことを、
壮大に、良いものとして描く。
それがほんとうだと信じて描く。
なぜならその内容は、
人類の理想のひとつだからだ。
王道ということはそういうことだ。
みんなが信じて心の中に大切にする物語とは、
結局は平均的なパターンを持っている。
その組み合わせの、
新しい新規性で勝負するだけのこと。
対比するべき存在に覇道がある。
従来のものを壊すことで評価がなされる。
ダウンタウンの笑いは、
従来の笑いの文法を壊すから面白かった。
しかし容易に想像されるように、
破壊の面白さは、
破壊されるべきものがなくなると、
面白くなくなる。
ゴジラがすべての建物を破壊したら、
もうすることがなくなってしまう。
だから今ゴジラは壊すものがなくて困っている。
従来の価値観に飽きた人には、覇道が歓迎される。
しかし覇道政治は従来のものを壊すだけで、
新しく何かを作らない。
小泉政治は国民の安全を壊した不況の原因だし、
デッドプールは映画文法を壊して遊んだけど、
そのあと何がオリジナルなのか出てこない。
壊すことがオリジナリティになってしまう。
ダウンタウンの笑いはいじりの笑いだ。
相手の持っている王道をずらしたりおちょくることで、
笑いに変えている。
つまり相手を壊すことで笑いを取る。
何か新しく構築をしない。
ドラゴンクエストというゲームは、
RPGという新しいジャンルを、
日本で開拓したゲームである。
元ネタがウルティマとウィザードリィであることは、
後年になればわかることだが、
当時は日本の人はほとんど誰も知らないから、
熱狂的に受け入れられた。
RPGは、ほんらい演劇である。
なにかの役を演じることを楽しむゲームということだ。
すっかり「世界を救う勇者を演じる」
ことだけしかなくなってしまったが、
別にそれだけが役を演じることではない。
今回の映画内でいえば、
フローラを演じるゲームがあってもいいし、
サンチョを演じるゲームがあってもいいし、
マーサを演じるゲームがあってもいいし、
ゲマを演じるゲームがあってもいいし、
スライムを演じるゲームがあってもいい。
(ウィザードリィ2は、悪のボスを演じるゲームだ)
そういえば幼い兄弟が、
兄は勇者を、弟はサマルトリアの王子を、
それぞれ操作する、なんて瞬間もあったよね。
これはそれぞれを演じている、ともいえる。
RPGは「勇者視点で世界を救う冒険の疑似体験ゲーム」
に矮小化されてしまっただけど、
原義でいえば演劇ゲームだ。
RPGの源流であるテーブルトークRPGは、
その原義がまだ残っている。
ゲームマスターのもと、
各プレイヤーがパーティの一個人を演じて、
セッションを楽しむように出来ている。
アドリブの得意な役者がプレイすれば、
演劇のエチュード(即興)のような場面を作ることも出来るかもしれない。
役者は己の肉体でそれを表現するけど、
RPGは肉体は必要としないのが、
誰でも出来るゆえんだ。
ちなみにこれはLARPというものに進化していて、
たとえば森で騎士のコスプレをして、
殴り合う真似をしながらゲームルールで遊ぶ、
みたいな逆VRになっている。
数値やイラストだけでなく、
リアルの文脈に持ち込む、
演劇とRPGの中間のようなものになっている。
RPGはだから、
大きくいえば演劇のジャンルだ。
役者やその作り手は、
その世界があると信じて、
その世界を補完するように動く。
音楽に話を戻せば、
その世界があると信じて鳴っている。
その世界があると信じてトランペットは吹かれるし、
その世界があると信じてバイオリンは弾かれ、
その世界があると信じてティンパニーが響き、
その世界があると信じてタクトが振られる。
世界を崩壊させようと企むゲマに、
父パパスを殺された少年リュカが、
奴隷となって天空城建設に使われて、
ある日ヘンリーと逃げ出し、
天空の剣を探す旅に出てビアンカやゲレゲレと再会し、
フローラとビアンカの間で心揺れて、
背中を預けられる人と共に生きようと決断して、
息子が生まれて石にされ、
石化が解けたとき、天空の剣の使い手が息子だったとわかり、
過去の自分からドラゴンオーブをもらってきて、
龍の背中に乗ってゲマを倒す、
その話が実在するとしたら、
音楽にできることはなんだろうと、
全力で演奏したものがあの音楽である。
役者は、その領分しか力を貸せない。
ビアンカ役の人はリュカになってはいけない。
一人が一人の力で力を尽くすのが、
演劇だ。
これは理想的な社会のシミュレーションでもある。
裏切り者や間抜けな者はいなくて、
全員が全力で、
その世界をつくろうとしている。
だからそれらが演じる全体は、
ほんとうに存在するようなリアリティに溢れ、
フィクションという約束事の中で、
架空の道具を使いながら、
ほんとうの理想(勧善懲悪など)を描く、
価値のあるものでなければならない。
もちろん仕事でハイハイとやる演劇もあるだろうが、
それは詰まらない演劇だ。
面白い演劇は、
全員が全員、本気でその世界があると信じてやっている。
音楽は、
それを全部まとめるまとめ役である。
FFとDQの違いは、
DQが王道で、FFが覇道なところだ。
王道でDQが先行で成功したから、
FFが覇道で戦わざるを得なかったこともあるが。
DQの王道たる所以はすぎやまこういちのテーマ曲に象徴される。
(堀井雄二の王道シナリオと、
鳥山明の王道キャラデザもあるけれど)
「世界の破滅を救う勇者の冒険」
というシナリオを信じきり、
それを最後まで演じきるゲームであると。
だから、その外をメタとして取り込むのは、
王道でなく覇道だ。
FFのようなカウンターカルチャーならばやってもいい手を、
DQでやってはいかんのだよ。
DQは王道であるべきで、DQが覇道に手を出したら、
セルフパロディになってしまう。
セルフパロディは、自分の体を食い尽くして終わり。
せっかく築いてきた王道の財産を台無しにする。
DQプレイヤーを馬鹿にしているとか、
オタクを馬鹿にしているとか、
そういうことじゃない。
音楽の象徴しているもの、
人類の理想のひとつを、
「ユアストーリー」は馬鹿にしているのだ。
「天気の子」にはまだ怒っているが、
「ユアストーリー」には怒る気力もない。
底なしの阿呆すぎて、説教の仕様がない。
僕は映画館であのテーマ曲が流れたとき、
鳥肌が立ち、勝手に涙が流れた。
それに相応しいストーリーをよこせ。
それは決してサラリーマンがVRするストーリーではなく、
ゲマを倒すリュカのストーリーであるはずだ。
らしいです・・・・見に行く気力が失せる情報ですがお知らせまで。
ドラクエ見に行ったときに予告見ました。
まだ全貌が見えてないのでコメントのしようがないですが、
以前のうんこ実写版との勝負だと、
ビジュアル面はましになるでしょうね。
こうして、すべての「映画化」は、
CGになっていく可能性があります。
実写にくらべて安い、リスクを抱えなくて済む、
ということがすべての理由です。
女工哀史時代かよ。
邦画やアニメがダンピングでダメになっていったように、
CG映画も同じ道を辿らないと良いのですが。
私もCGという手段にはあまりいいとは考えていない一人です。ただ監督の「いけちゃんとぼく」のいけちゃんのCGはとても自然で、非常にいい出来だなとズタズタにされた脚本ではありましょうが、監督のスピリッツを感じてこの映画をよくぞ世に出してくれたと感謝するものです。
CGアニメはこれから増加していくでしょうが、よっぽど巧い使い方をしていない限り、私が映画館に足を運ぶことはないでしょう。そこに何らかの理想を描いていれば別ですが・・・・。
いけちゃんのCGは、
CG予算を見積もりから1億下げられたゴタゴタのあとの、
後始末のような闘いでした。
少なくとも「動き」だけは本物の芝居をしようと、
何回もリテイクしたことを覚えています。
なんだか自然に見えるのは、動きという芝居に時間をかけているからです。
(いつも目標にしているのは、
バーチャファイター1のOP、サラのフロントスープレックス。
たかがポリゴンなのに美しさを感じた)
セルアニメが減り、CGへ移行するのは、
全体的なコストダウンのせいです。
それでも、ドラクエのCGは飛び抜けて出来がいいと思いました。
ヒックとドラゴン並に。
しょうもない脚本とわかっていながらも、
ドラクエの為に頑張ったスタッフがいるはずです。
そこは素直に拍手をするべきところだと思います。
問題は、「アニメより安く上がるから」とCG映画を企画する、
企画者側にあると思います。
CGやフィクションは、そのような目的で立ち上がるべきではないと思います。