「かつての職人は見て覚えろと教えたが、
辛いだけで育たないではないか。
僕は職人さんにきちんと教わったら一年や二年でマスターしたぜ。
見て覚えろは古い非効率なやり方だ」
という言説が流行っている。
これはそういう例があったというだけだ。
だってあなたたち、何年も教えられて、
英語や数学のマスターになってないでしょ?
シナリオセンターの受講生から、何人プロが出たんだよ?
そもそもマスターできない奴が、生徒の過半数なんだぜ?
教えること、マスターすることについて考えてみる。
教える側には労力がかかる。
膨大な知識を体系的にまとめるだけでキツイ。
たとえば僕のここに書いたことを、
章立てて本にするとしたら、
結構な労力がかかるだろう。
まずそのような、
「まとまった知識がすでにある」と考えることが、
学校の外でのことを知らない証拠だ。
まとまった知識は過去のものでしかなく、
現在回転しつつある現場での最新のものは、
体系だっていない。
だから、体系立てて教えられることなんて、
テンプレしかないのだ。
もちろん、誰かがまとめたテンプレを流れ作業で教えることは、
そんなには労力がかからない。
だけどそれは大抵面白くない。
学校の授業がエキサイティングでない理由がそれだ。
教師がそのジャンルで第一線にいないからね。
さて、
じゃあ、第一線を退いたばかりの人が、
体系的にまとめたものなら良いか?
教える側はそうかもしれない。
しかし教わる側はどうだろう?
様々な才能とモチベーションがあり、
教えることがひとつでも様々なマスターの仕方になり、
バラツキが出る。
シナリオセンターが本当にいいなら、
全員がプロになれるはずだが、
そうはいかない。
才能や磨き方はバラバラだし、選抜されているわけでもない。
ちょっと覗いて見たい程度の人は、
本気の授業なら音を上げるし、
本気でやりたい人なら見ただけでも覚える。
シナリオを教わることを考えると、
たとえば脚本添削スペシャルを見ればわかるけど、
聞きに来た人の才能はバラバラだ。
それらの人に、体系化された唯一の授業をやることに、
あまり意味があるとも思えない。
個別に部分で教えるのがいいと思うし。
つまり、
「職人にちゃんと教わったら一年で使えるようになった」
のは、
その職人が教えるのが上手くて、生徒と合った、
マンツーマンのベストケースだったからにすぎない。
教えるのが下手な職人もいるし、
生徒と合わない職人もいるし、
そもそもマンツーマンが出来る幸せな環境があるわけでもない。
「見て覚えろ」は、
バラバラな才能をふるいにかける選別で、
見て覚えられる程度の才能を残して、
覚えられた部分に足りない部分を、
マンツーマンであとで教えるための、
第一のふるいだと僕は考える。
そもそも下働きに耐えられない精神力や体力なら、
それより辛い一丁前の職人にもなれない。
で、ふるいで落ちた人が、
「つらい下働きをさせられただけで終わった」
とブリブリ言ってるだけなのが現状だと思う。
見て覚えられるだけの才能もモチベーションもなかった、
試験に落ちた人が文句を言ってるだけだと。
全ての人の声を等しく大きくする、
ネット時代の罪だと思う。
武術の世界では昔から、
「良師は三年歩いて探せ」というそうだ。
ずぶの素人が師匠にマンツーマンでついてもダメで、
ある程度どこかの道場で強くなってから、
放浪して師匠を探せ、
ということになっている。
師匠を探すのも才能だ。
つまり、「見て覚えろは古い」というやつは、
師匠を探す才能がないやつなのだ。
僕はいい師匠に恵まれた。
そして沢山の名作から、見て覚えた。
シナリオセンターに通わずして、
名作から見て覚える人だって沢山いる。
良い師匠につかなくても一人前になる人もいる。
だから僕は、
見てもないのに分かるはずないよね?
と言う。
見ることはただ見るだけではない。
構造を自分の中で分解して、
再構築して丸暗記したり、
良くないところがあったら改造できるようになることだ。
失敗をどうフォローすれば良いのかすら、
見て覚えることは可能だ。
僕はクソ映画を見たとき、
「じゃあどうすればよかったのか」について、
必ず提案することにしている。
それだって「見て覚える」稽古だよ。
「見て覚えるは古い」というやつは、
ただ見てただけの、何もできない奴のことだ。
ほんとは見せないんだぞ。
それを見せてくれるんだから、
ノウハウは盗めるだけ盗めや。
見終えたら質問をすれば良い。
「よく見てたかどうか」が、その人が答えてくれる基準になる。
そこまで見てるなら、今から話す話がわかるだろう、
と思われるよ。
教える才能がない人には、
そうやって質問して聞き出すのだ。
凡人でもちゃんと言語化・体系化されたものを教われば最低限の仕事ができるようになるというシステムを構築できていないのであればそれはその業界の先人が愚かだったということです。
少子化や業界の閉塞感によって、邦画や日本の映像業界は、
すでに半壊していると考えています。
脚本は、まず基本的な才能に加えて、
たくさんの勉強、客観性を持つ訓練、不安定な出力を平均化するための数打ちの鍛錬など、
長い時間のトレーニングが必要で、
凡人になせる技術とは思えません。
凡人はその前に音を上げるでしょう。
残念ながら、基礎才能がない人は、どんな体系的訓練を経てもつまらないホンしか書けないのは、
多くのスクールがたくさんの業界人を輩出していないことで皮肉にも証明されています。
そしてそれだけでは手をこまねくだけなので、
僕はここで実際に脚本添削をしたりして、
学ぶ機会、訓練する機会を設けています。
僕以外の先人は愚かかもしれませんが、僕は出来る限りのことはしているつもりです。足りないと言われればそれまでですが。