2019年08月09日

ストーリーが消えて、キャラクターが残る

いいストーリーって記憶に残らない。
脚本家のような、特別に訓練された人だけが、
キャラクターとストーリーを分離できる。

なぜなら、いいストーリーは、
キャラクターしか残らないように出来ているからだ。


逆に考える。

キャラクターだけ立っていて、
ストーリーが糞だとどうなるか?

出落ちで終わりなのだ。

キャラが出た時しかおもしろくなくて、
その後の記憶は全くないものが、
出落ちだ。
僕はその典型は、SW1のダースモールを例にあげる。
あの扉が開いてツインセイバーを出した瞬間は最高だよ?
でもそれだけでストーリーが関係なかった。

こうした場合、
キャラ設定だけが記憶に残りやすい。
ビジュアル、境遇などの静止画的要素だ。

キャラクタービジネスは、変化しないこれらを商売の対象にするものである。
だからキャラクターが成長する、
物語形式とは本質的に相性が悪いことを自覚されたい。


そのキャラがきちんと面白いストーリーになっていたら、
「そのキャラクターの決断」とか、
「そのキャラクターがその場面にいた時の表情」
などが記憶に残りやすいと僕は思う。

それは大きくストーリが動いたときで、
そのストーリーをそのキャラクターが動かした時だからだ。


昨日風魔を一気見したんだけど、
未だに語り継がれる、
「告白の時の小次郎の目」は、
そういうことだ。
小次郎がストーリーを進めるときの、
その表情が記憶に残るのである。

ストーリーとしては、
「結ばれない運命と分かっていながら、
愛を告白し、あなたの理想を理解すると宣言する」
だろうけれど、
それを決意した表情のほうが記憶に残るんだよね。

それは、
僕の「記憶は一枚絵」仮説を後押しするわけだ。


訓練された脚本家ならば、
この表情の演技は素晴らしいが、
それはそもそもそのようなストーリーがあるからだ、
と分析することが出来るだろう。
分析は、飲み込まれていては出来ないからね。


ということで、
面白いストーリーであればあるほど、
ストーリーそのものにのめり込んでいて、
キャラクターの表情しか記憶に残らない仮説。

たとえば「エンドゲーム」では、
アイアンマンの最期の指パッチンの表情や、
キャプテンアメリカのラストダンスの表情しか、
記憶に残らない。
「スパイダーマン/ホームカミング」では、
ドアを開けた瞬間の、ピーターの表情しか記憶に残らないし、
ダンスパーティーに現れて「I'm sorry」と言った、
全てを表すあの表情しか、記憶に残らない。
そんな感じだろう。

しかも役者の全力の演技よりも、
自然な普通の表情のほうが、
最も好ましい芝居になることは、
クレショフのモンタージュ実験で証明済み。

だから役者は得して、脚本家は裏方なのだが、
そこはそういうものだ。
スタッフが分かっていればいい。
(プロデューサーが分かるべきだが、
客を持ってるかどうかでしか判断しない阿呆が増えているのは事実)



で。

ストーリーを動かすのはキャラクターだ。

そもそもそうなっていない、
詰まらないストーリーは、
その芸能人の顔しか残らない。
キャラクターの表情としては残らないだろう。

そのキャラクターへの愛を、芸能人への愛に勘違いさせるのが、
芸能人という商売だが、
我々はそれとこれを分離して考えなければならない。

ストーリーとキャラクターは両輪であり表裏一体だ。
ストーリーはキャラクターの決断の連鎖であり、
キャラクターはストーリーで決断して変化する人のことである。
posted by おおおかとしひこ at 18:13| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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