2019年08月21日

結局よく分からないものを「ストーリー」って呼んでるだけでは

専門家ですら、ストーリーとストーリーでないものを、
きちんと区別できていないかも知れない。
ましてや普通の人、専門家を目指そうとする人においてをや。


絵はストーリーとは関係ない。
これはなんとなく分かるだろう。
漫画でも作画とストーリーを別の人が担当することがある。

勉強になるのは、デスノートのコミックスだ。
そこには原作者大場つぐみのストーリー
(ネーム形式)と、小畑健一が仕上げた絵の比較を見ることが出来る。

もしあなたが大場つぐみ版を見て、
「デスノートって面白いぞ!」
と判断できるならば、
あなたはストーリーとストーリーでないものを、
きちんと区別出来ているということだ。

しかし実際のところ、
小畑健一の絵の魅力によって、
デスノートは面白さを何倍にも膨らませている。
卓越したデッサン力、
表情の妙、
カッコいい可愛い絵、
それらは「その世界が確固としてそこにいる」
手触りを作っている。

こう考えると、ストーリーとは何かを分離しやすい。
「その世界が確固としてそこにいること」
と、関係ない部分がストーリーだ。

え?
絵のリアリティは置いといて、
キャラクターのセリフや仕草や、考え方は?
ここは、ストーリーに属する部分だ。

再び大場つぐみ版に戻る。
仮に丸と四角だけでキャラクターが描かれ、
背景が「学校」「家」などという文字だけで描かれていたとしても、
なおリアリティがあり、面白い部分が、
ストーリーの面白さだということになる。

絵のジャンル、良さ、出来不出来は、
一切関係ないと分離してみよう。

これは、
「絵がものすごくいいけれど、ストーリーがサッパリ」
の代表、大暮維人の漫画を見れば理解できるし、
「絵がものすごく良いのに、
ストーリーがそこに追いついていない」の代表、
大友克洋(たとえばAKIRA)を読めば理解できる。

さて、
ここは映画シナリオ論なので、
映像作品を見てみよう。

実写の大きな要素に、「誰が演じるか」がある。
現在日本の興行ではこれが横行しすぎ、
「○○が出てればなんでもいい」になりかかっていて、
「誰が出てたとしても面白いストーリー」が、
絶滅の危機に瀕している。

具体例で想像してみよう。


僕が監督から降板した、
イーデザイン損保のCMシリーズがある。
(降板の理由は広告代理店が変わったため。
僕はCMは電通の仕事しか受けられない)

織田裕二の怪演が物事を引っ張ってくれるわけだけど、
もしこれが織田裕二ではなく、
「全然違う人」だったらどうだろうと想像してみたまえ。
菅田将暉でも、綾野剛でも、
ジャニーズでもいいよ。
あるいは全盛期の三船や菅原文太でもいい。
「その人のカラー」に、全体が染まることが想像出来るだろう。

さらに。知らない人が演じていることを想像してみたまえ。
誰か知らない役者さんだとしたら?
あるいは、あなたの父親や上司だとしたら?

ストーリーそのものが面白いだろうか?
いや、このCMにはストーリーらしきストーリーはない。
保険の説明に近いからだ。
しかし一応、「保険の問題点があり、そこでこう解決した」
という困った→解決のテンプレは存在する。
音声要素を文字起こしして、台本形式で書いてみてもいい。
このストーリーは面白くないストーリーだ。
どのCMにもあるテンプレでしかなく、平凡なストーリーだ。
織田裕二の怪演だけで持っているCMだということがわかる。

(僕が担当していた三年間でも、
ストーリーらしきストーリーがあったとは言えない。
僕は作画担当に徹したので。そういう仕事もある)

つまりこれは、「誰が出ていたとしても面白いストーリー」
ではないことがわかる。

大場つぐみのストーリーは、
「誰が出ていたとしても(どんな絵でも)面白いストーリー」だ。


ストーリーの面白さは、
どういう要素があるのだろう。

設定、キャラクター、
リアリティ(リアルだから良いとは限らない。荒唐無稽な突き抜けも含む)、
展開、意外性、テーマとストーリーの不可分さ、
などがあると考えられる。

設定の面白さは理解できるだろう。
こんな世界でこんな事件が起こって、
それに対してこんな設定の人物たちが…
と書き下せば理解できる。

キャラクターの面白さは、
キャラクター設定(つまり過去)の面白さもあるし、
ある場面でどういうリアクションをするか、
という現在の面白さもある。

リアリティは、扱う題材との距離感を決める。
めちゃくちゃリアルだから面白い場合もあるし、
リアルすぎて生々しい場合もある。
カリカチュアが効いてて面白い場合もあれば、
リアリティがなさ過ぎて萎えるのもある。
キャラクターがリアルな、キャラクターの面白さとかぶる部分もある。

展開の面白さは、
「こう展開するだろうな」という予測が当たる面白さと、
「まさかこんな展開になるとは思わなかった」
という意外さの面白さの、両方がある。
実は巧妙に作られたストーリーは、
誰もが、予想通りと、予想を気持ちよく裏切られたことの、
二つを体験するように出来ている。

最後に、テーマとストーリーの不可分さだ。
「このことを(間接的に)いうために、
全てが計算されて並べられていたのだ!」
となるものがベストだ。
それが落ちで判明するのがさらによい。

そうでなければ、

前半で予感される結論と後半の結論が違っていたり(首尾一貫性の破綻)、
それを言うためにこれいる?があったり、
それを言うならこれが必要なんじゃない?があったり、
それを言うならこうのほうがよくない?があったり、
それを言うならこの構造の方がよくない?があったり、
その構造ならこの結論に導かれるでしょ、があったり、
結論が出なかったり(ストーリーのから騒ぎ化)、
サブストーリーがメインストーリーと全然関係がなかったり、
サブストーリーとメインストーリーが一度も絡まなかったり、
そもそもこれなんだったんだっけ、になったり、
そうするなら他の名作の方が出来がいい、になったり、
名作と被ってることを理由に逆張りしてるだけになったり、
死に設定がどんどん増えたり、
主人公とテーマが関係なくなったり、
否定形でテーマを言ってしまったり、
ラストが予測でき過ぎて途中で飽きたり(確認だけになってしまう)、
になる。

これらの欠点がある限り、
ストーリーは面白くならない。

勿論欠点以上の魅力がストーリーにあれば、
総合的に面白いとなるだろう。

しかし実質、
欠点のあるストーリーを、絵や役者がカバーして総合点を上げている、
というのが現状だ。


ストーリーが良かった/良くなかった、
というのは自由だが、
それは本当にストーリーのことを語っているのだろうか?
「じゃあそのストーリーのどこが?」
と質問すると、
要領よく答えられない人の方が多いのではないだろうか?

つまり、絵が良かったとか、
シーンが良かったとか、
音楽や役者が良かったとか、
伏線解消のどんでん返しが良かったとかの、
点の良さしか語れず、
そこで捉えきれない暗黒部分を、
ただストーリーという言葉で括っているだけなのではないか?

ストーリーはもっと分解できる。

縦方向には三幕構成理論で。
横方向にはサブプロットとメインプロットの交差で。
あるいは、
今までのこういう流れがあったから、
この僅かなここに、これだけの情報量が詰まるのだ、
などのように。
あるいは別の軸に、動機や感情移入があり、変化や渇きがある。
カタルシスとは、これら全ての集約点だ。


もっとみんなストーリーを分解して、
頭の中で再構成したり組み替えられるようになるといいのに。

その為の道具、分解や再組み立てに必要なものを、
なるべくここでは平易な言葉で書こうとしている。


ストーリーはダークマターではない。
あなたがこれから書く全てである。
分解したり組み立て直しが出来なければ、
脚本家とは言えない。
posted by おおおかとしひこ at 12:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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