2019年08月22日

紙に書き出して整理する意味

デジタル作業は点と線しかない。
総合的な俯瞰をするには、紙に書き出して表を作ると良い。


そして、「表を作る行為そのもの」が、
「何を見落としているかのチェック」になる。

あるいは、
「これらはこう整理するべきか、ああ整理するべきか」
という、「整理の軸」の発見そのものに役立つ。

デジタルの線引きは与えられた線引きしかないが、
紙に書き出して整理しようとする中で、
「この線引きで新しく整理できる」
を発見することがよくある。

そうすると元の線引きではなく、
新しい線引きでものごとを整理したほうが本質的だ、
ということになるわけだ。


もちろん、表を何回か作ることになるかもしれない。
それは無駄ではなくて、
「頭の整理に必要な時間」だと思えば、
数分や數十分、数枚数円の紙をかける価値は全然あるし、
整理できなかったことで発生する無駄を考えれば、
格安のコストだと言える。
シュークリームなどで糖分ブーストするとしても、何百円のコストだ。


オリンピックの無駄を見ていればわかる。
誰も「全体から見て整理」していない。

打ち水でなんとかしようとしたり、
1Fのクーラーを開け放てと言ってみたり、
朝顔で付け焼き刃したり、
徹夜明けでボランティアさせたり、
動員される観客は最寄り駅使用禁止など、
引いた目で見たら考えられない愚策の数々は、
「担当部署の狭い視野だけでなんとかしようとした結果」
だということがわかる。

そんなもん、紙に書き出して要素を整理すれば?
「そこにもうひと金かけてなんとかして、
膨れ上がる別の部分を大きくカットすれば良い」
ということに気づけるはずだ。

線と点だけで考えていると、
網の目から漏れたたくさんのことがボロボロと溢れる。
紙の上で表を作る行為そのものが、
網目を作り、全てに目端を効かせる行為である。

たとえば自分の仲のいい人、その人の仲のいい人、
などだけで見ると、クラスメイト全員を網羅できない。


オリンピックに関しては、
中央から見ている、こうした整理する人格がいないから、
愚の祭典になっているわけだ。



あなたの脚本が、こうであっていい理由はない。



カンニングペーパーを作る行為そのものが勉強になる。
全知識を網羅しなければならないから、
表を作ることになるからだ。
その表はどのような基準で作らなければならないのかを、
考えることが既に勉強だ。
そして見落としや欠落に気づくことで、
結局網羅的な知識がついてゆく。

表計算ソフトに任せるバカは、
表計算ソフトの提供する枠組み内でしか考えられず、
新しい表の次元を生み出せない。

「どの観点でどういう表を作るべきか」こそが、
創作というものだ。

「生産性で測定出来るものは、
いずれ全て機械に代替可能である」
という名言をネットで見た。
数字で測定出来るものならば、
労働は機械であるという理屈だ。

そうではなくて、
どう網羅したものをどう整理するのか、
新しい整理軸を発見しなければならないということだ。

そしてそれがすっきりいったとき、
それが創作の軸になる。



ちなみに、オリンピック期間は東京を離れることにした。
それがすっきりした整理というものだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:17| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。