デジタル作業は点と線しかない。
総合的な俯瞰をするには、紙に書き出して表を作ると良い。
そして、「表を作る行為そのもの」が、
「何を見落としているかのチェック」になる。
あるいは、
「これらはこう整理するべきか、ああ整理するべきか」
という、「整理の軸」の発見そのものに役立つ。
デジタルの線引きは与えられた線引きしかないが、
紙に書き出して整理しようとする中で、
「この線引きで新しく整理できる」
を発見することがよくある。
そうすると元の線引きではなく、
新しい線引きでものごとを整理したほうが本質的だ、
ということになるわけだ。
もちろん、表を何回か作ることになるかもしれない。
それは無駄ではなくて、
「頭の整理に必要な時間」だと思えば、
数分や數十分、数枚数円の紙をかける価値は全然あるし、
整理できなかったことで発生する無駄を考えれば、
格安のコストだと言える。
シュークリームなどで糖分ブーストするとしても、何百円のコストだ。
オリンピックの無駄を見ていればわかる。
誰も「全体から見て整理」していない。
打ち水でなんとかしようとしたり、
1Fのクーラーを開け放てと言ってみたり、
朝顔で付け焼き刃したり、
徹夜明けでボランティアさせたり、
動員される観客は最寄り駅使用禁止など、
引いた目で見たら考えられない愚策の数々は、
「担当部署の狭い視野だけでなんとかしようとした結果」
だということがわかる。
そんなもん、紙に書き出して要素を整理すれば?
「そこにもうひと金かけてなんとかして、
膨れ上がる別の部分を大きくカットすれば良い」
ということに気づけるはずだ。
線と点だけで考えていると、
網の目から漏れたたくさんのことがボロボロと溢れる。
紙の上で表を作る行為そのものが、
網目を作り、全てに目端を効かせる行為である。
たとえば自分の仲のいい人、その人の仲のいい人、
などだけで見ると、クラスメイト全員を網羅できない。
オリンピックに関しては、
中央から見ている、こうした整理する人格がいないから、
愚の祭典になっているわけだ。
あなたの脚本が、こうであっていい理由はない。
カンニングペーパーを作る行為そのものが勉強になる。
全知識を網羅しなければならないから、
表を作ることになるからだ。
その表はどのような基準で作らなければならないのかを、
考えることが既に勉強だ。
そして見落としや欠落に気づくことで、
結局網羅的な知識がついてゆく。
表計算ソフトに任せるバカは、
表計算ソフトの提供する枠組み内でしか考えられず、
新しい表の次元を生み出せない。
「どの観点でどういう表を作るべきか」こそが、
創作というものだ。
「生産性で測定出来るものは、
いずれ全て機械に代替可能である」
という名言をネットで見た。
数字で測定出来るものならば、
労働は機械であるという理屈だ。
そうではなくて、
どう網羅したものをどう整理するのか、
新しい整理軸を発見しなければならないということだ。
そしてそれがすっきりいったとき、
それが創作の軸になる。
ちなみに、オリンピック期間は東京を離れることにした。
それがすっきりした整理というものだ。
2019年08月22日
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