2019年08月27日

敵対者の正義

敵対者が悪でない場合の方が、
最近の流行だった。
敵対者にはそれなりの正義があり、
自分なりにそれがよいことだと思って行動している。
彼の中では矛盾も破綻もなく、
むしろ主人公こそがおかしな基準で動いていると。

このような相対性をもったまま話を書けるかは、
大変難しい。


なぜなら、
どちらも正しければ、
主人公の勝利に素直に喜べなくなるからだ。

向こうの正義もわかる、
こちらの正義もわかる、
じゃあ情がわいた方を応援するのか、
ということになってしまう。

相対主義は結構だが、
行き過ぎだ相対主義は、
進まない民主主義の会議のように、
少数意見を尊重ばかりしてしまい、
大枠の正義を見失う。

極端な話、どっちの言い分も正義ならば、
数の多い方を優先する、
となったって不思議ではない。
パワーゲームだ。
最大多数の最大幸福だともいえる。

で、大抵主人公側は少数派に属して、
敵対者のほうがパワーを持っているので、
正義がどちらにもあるならば、
敵方が勝利してしまっても、民主主義的に問題ないことになってしまう。

ということは、
主人公が主張し、戦う理由は、
「ただのわがまま」になってしまうわけだ。

相対主義をこじらせると、
このように、
主人公側に大義名分がなくなり、
あまりにも私的な理由で行動してしまうことになる。
褒められたものではない、
みんながいいと思っていることに、
ただ逆張りを個人的にしているやつに、
矮小化されてしまうわけだ。

これではストーリーにならない。
応援する価値がなくなってしまう。


「天気の子」のシナリオ的問題はまさにここで、
その私的理由に応援する価値がないから問題なのだ。
「恋が素晴らしいから」では理由にならない。
東京を水没させてまで、たかが高校生の恋が大事だとは思えない。
その辺に歩いてる家出高校生の恋の為に、
俺の街が水没されられるって?
冗談じゃないぜ。


ヒントは大義名分だ。

主人公に大義名分があれば、
敵対者を価値的に凌駕できるのだ。

たとえば、敵対者がズルをしているとか、
非人道的手段を使っているとかにするとよい。
大義名分がたてば、
大衆はそちら側につく。

ベッキーがあれほど叩かれたのは、
彼女に大義名分がなかったからだろう。
嫁が悪いことをしていれば
(横領でも子供への虐待でもなんでもいい)、
彼女は悲劇のヒロインのままでいれたはずだ。

このように、大義名分のありなしで、
相対主義は大きく変わってくるのである。


アメリカが湾岸戦争を起こした大義名分はなんだったか。
911を受けてイラクへ空爆した大義名分はなんだったか。
大義名分は作ろうと思えばつくれる。
相手に人道的落ち度をつくればよいのだ。
(911が自作自演説が消えないのも、
大義名分を与えるのに格好だからだ)


特に、
「言ってることは正しく、やっていることもまともなのだが、
裏で非人道的なことをやってる人」に、
潔癖な日本人は厳しい。

麻薬やってようが仕事をきちんとこなしていれば、
僕は問題ないと思うがね。
「憧れや夢を売っているから」という批判はあるけれど、
憧れや夢を売るのが、僕は間違いだと思っているので。
作品力だけで勝負するべきだろうに。
憧れや夢を売るのは、色恋営業でしかない。
色恋で作品力の弱さを減じてほしいという、ズルだと僕は思う。

話が逸れた。

つまりは、表と裏で別の顔があったりすれば、
その瞬間相手に大義名分が成り立たなくなるというわけ。

「敵対者の正義はただしい、しかしやり方に問題がある」
という帰着点が、
昨今の流行ではないかと思う。

人生はやったもん勝ちだから、
やり方はめちゃくちゃでもいいと僕は思う。
それを応援するには、大義名分があればよい。

勿論、主人公サイドに御涙頂戴の隠されたエピソードがあったっていい。
しょうもないバラエティは、
こうした基本構造を知ることに役に立つ。
あとは、しょうもないエピソードではなく、
エッジが効いてる、
洗練されたエピソードにすればいいだけのこと。


敵対者の正義はなにか?
主人公の正義はなにか?
その均衡を崩す、最大多数の最大幸福を覆すだけの、
大義名分はなにか?
こう考えると、話は推進力を持ちやすい。
posted by おおおかとしひこ at 12:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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