2019年08月28日

直接対決

クライマックスのピークは、直接対決だ。

最も苦しく、そして爽快な部分だろう。


アマチュアが作るストーリは、
かつてヤオイと呼ばれた。
山なし、落ちなし、意味なしの三拍子だと。
その後この言葉はBLを意味する言葉へと変質したので、
原義を知ってる人も減ってきたかも知れない。

逆にいうと、
面白いストーリーには、必ず最後の山があり、
それが落ちに繋がり、
意味に繋がるということだ。


そして、殆どの物語では、
直接対決がある。

それは、ストーリーというのは、
人と人によって演じられるものだからで、
たとえ概念と概念の対決だとしても、
人間によって象徴されているからである。

ルークとダースベイダーの闘いは、
映画のストーリー内においては、
個人と個人の闘い以上の意味がある。

共和自由主義と帝国独裁主義の代理戦争であり、
正義と悪の代表戦であり、
何者かになれない人と、すでに何者かになっている権威との闘いである。

逆にこのようになるように、
ストーリーが組まれる。

二人の直接対決は、
○○と△△の代理戦争であり、代表戦なのだ、
というふうに。


じゃんけんですら、クライマックスは燃えるようにせよ。
それは、その一挙一動で○○の勝ちなのか△△の勝ちなのかが、
瞬時に決まるからである。
どちらが価値があるのかが、
その物語の結論であり、意味であり、落ちである。

じゃんけんでも決まるようにしておけば、
あとはガワを盛っていけばよい。

じゃんけんのような安易なものではなく、
カンフーバトルでもいいし、
法廷での対決でもいいし、
バトルレースでもいいし、
チェイスの果ての殺し合いでもいいし、
スポーツの決勝戦でもいいし、
ガンマンの早撃ち勝負でもいい。

ここが見たことのないビジュアルになるからこそ、
それは新しい見世物として意味がある。
どこかで見たようなクライマックスは、
基本無視であろう。

だから趣向を凝らし、クライマックスを工夫することはとても良いことだ。
地図を作り大まかな計画を組むとやりやすい事についても書いた。
それは、趣向を凝らすために必要な準備だろう。


で、ガワを取り去って中身だけを見ると、
その直接対決は、結局は、
「どちらの代表する価値が、ほんとうに価値があるのか」
という結論を出すまでの過程である、
と言える。

勿論、直接対決までには、
これまでの積み上げがあり、
大体は状況証拠的に積み上げてきたので、
あとは勝つだけ、みたいなことにはなっているはず。
だけど、ギリギリ細かい部分は、
直接対決してみないと分からないだろう。

その、ギリギリの部分を明らかにするために、
クライマックスが書かれるのだといって過言ではない。


ロッキーのクライマックスでは、
「たとえ負けても立ち続けること」が目的で、
どれだけ倒れても立ち上がろうとすることが描かれる。
それはただのボクシング試合ではなく、
人生の比喩だと分かっているから、
我々は拳を握りしめて応援するのだ。

逆に、それが人生の比喩だと我々が分からなければ、
ただのボクシング試合でしかなく、
「面白い試合かどうか」でしかない。
それは映画ではなく、ただの試合だ。
それが人生の比喩なのだと、それまでに分かっているからこそ、
あとはガワに乗っかるだけなのだ。

「クリード」では、
その立ち上がろうとする場面で、
テーマのセリフが口をついて出てくる。
「I'm not a mistake」だ。
この試合に勝てばそれを証明できるから、
クリードは戦う。

このように、○○の価値を描くために、
クライマックスはある。

そしてそれが最も鮮烈に、
人間と人間で表現できるのは、
逆の価値を持つ者との、
ギリギリの直接対決であろう。


どんな直接対決があるのか?
それが最も面白くなるべきだ。

ダイナミックで、繊細で、
ハートに直撃する何かで、
○○サイドの勝利を描きたまえ。

そうすれば、山も落ちも意味もあるものに、
必ずなる。
posted by おおおかとしひこ at 11:00| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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