特に執筆終盤、
物凄く落ち込む時にこの呪文を唱えると良いだろう。
ストーリーを書くという行為は、
ある種の全能感を満足させる。
自分が理想と思い描いたことが、
目の前に出現する(イメージの中で)のだから、
そう思うのも無理もない。
(この、「世界は自分の力で改変できる」
ということを学ぶための箱庭療法は、
鬱や精神病を治療する可能性すらある)
しかしそのような全能感ブーストは、
ふと冷める時がやってくる。
特に終盤だ。
序盤は全能感が溢れている。
「まだどうなるかわからない」という期待含みなので、
「とにかく面白そう」さえあればよいからだ。
(それが、面白そうだけどあとあと回収できない奴かどうかは、
長いことやってればなんとなくわかる。
面白そうだけどただのハッタリを見抜けるようになる。
「ファイアパンチ」は、そのようなハッタリの張り子だった)
中盤でも「まだなんとかなる」と思っていることもある。
あとは落ち次第だなあ、なんて問題の先送りをして、
精神を楽にしているだけの可能性もあるけど。
しかし終盤ともなってくると、
このストーリーの限界点というか、
「この辺りにしか着地できない」
ということに気づき始める。
ストーリーが進めば進むほど、
ストーリーの可能到達点が下がってくる。
「これはここまで止まりの話だろう」が、
どんどん下方修正されてくる。
序盤の全能感の膨らみは、急速にしぼんで行く。
世界をひっくり返すものになるかもしれない、
と思われた期待は、
大したところまで行けなかった、
という失望に変わる。
あれだけあった全能感の高揚は、
丸裸で走り回っていた子供だったと恥ずかしくなる。
世界を完璧に表現できたと思ったのはただの錯覚で、
この程度しかなかったと気づく。
書き終えてから気づける、鈍い者は幸いだ。
一応完結までは書けるからだ。
鈍くない者は、どこか途中でふと冷める。
これ、想像したような完璧な作品ではない、と。
その冷めが作品に伝わり、
作品が熱を失い、
予想以上にしぼんでいくかもしれない。
そうして、
本来ならば最後まで走れたものが終盤に来て挫折、
ということも十分あり得る。
苦労したものが、なににもならなかったと知る恐怖は、
何者にも代えがたい。
色んなものを犠牲にして、長い時間耐えて来たものが、
結局は世界を変える物凄いものじゃなかったと知ることは、
何者にも代えがたい。
僕はいまだに「シャイニング」のあのシーンを思い出す。
一夏泊まり込みで、タイプライターを持ち込んで書き上げた、
夫の小説を妻が目撃するシーン。
同じ一文だけが、最初のページから最後のページまで書いてあるだけ。
一夏ずっと必死でやったものが、この程度。
あんなに色々考えたのに、こんなでしかないということは、
俺もジャックニコルソン同様狂っているのではないか、
という恐怖。
普通の人にとっては、
あの映画は斧を振り回し、迷路を追ってくる狂気の男が怖いのかも知れないが、
僕らにとっては、
あの原稿の意味のなさこそが恐怖だ。
これは本当に努力した人でないと分からないことかも知れない。
片手間で適当にやっている人には味わえないことかも知れない。
もしこれが恐ろしい恐怖ならば、
あなたは本気で取り組んだのかも知れない。
自分が大したことないと知るのは恐ろしい。
これに対処するたった一つの方法は、
「自分は大したことないのだ」と諦めることしかない。
まだリライトで挽回のチャンスもあるし、
そもそも俺はキリストではないし、
いや、キリストでも完璧な物語を書いたわけではない。
じゃあ、完璧なストーリーとはなんだろうと考える。
そのストーリーが用意した枠組み内で、
綻びのないものが、完璧と呼ばれるのではないか?
何も人類が出現して以来の完璧を目指さなくてよいのだ。
あなたの提供した枠組みの中で、
綻びがないものを完成させれば、
それはその範囲内で完璧なのだ。
完成していないものは、その評価すら出来ないではないか。
その範囲内が大したことなければ、
大したことある範囲内で完璧を作ればよいだけの話。
次はもっと大きな範囲に挑戦すればよい。
自分の風呂敷すら完璧にたためないのなら、
その次の更なる大きな挑戦は、
やっぱり畳めないに決まっている。
だから目の前の風呂敷を、
完璧に、綺麗に畳むことに集中すればよいのだ。
その風呂敷自体が完璧かどうかは、
あとで考えればいい。
リライトでどれだけ客観的になれるかで決まってくるだろう。
まずは目の前の風呂敷を、美しく畳もう。
物語には狂気がいる。
狂気でもないと、
こんなに時間のかかる孤独な戦いなど、到底続けられない。
ある種の勘違いが必要で、
俺は全能なのだという感覚は、
狂気を前に進めるのに重要だ。
しかしどこかで冷静に戻った時に、
その狂気や熱は、やっぱり意味があると思い、
その尻をきちんと拭くことだ。
そこが冷静に綺麗になっていれば、
その狂気は理性で報われるということだ。
あなたの狂気には価値がある。
自分の、と考えるから評価できないとしたら、
もう一人の誰かの、と離人的に考えてもいい。
理性がそれらを判断して、うまく統合してくれる。
この狂気を上手くプロデュースするとしたら、
このような畳み方であるべきだ、
とプロデューサー人格として考えればよい。
冷静と情熱は、このように使い分ける。
ということで、
終盤にありがちな挫折は、
主人公たちを家に返すまでが遠足だと思って、
乗り切ろう。
家に帰れなかった奴は、遠足をしたことにならない。
行方不明とか、客死というのだ。
たとえあなたの人生そのものが客死で終わろうとも、
主人公たちは家に帰しなさい。
完璧なストーリーは歴史上ない。
「その場での完璧」があるだけだ。
2019年08月29日
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