2019年08月29日

完璧なストーリーはない

特に執筆終盤、
物凄く落ち込む時にこの呪文を唱えると良いだろう。


ストーリーを書くという行為は、
ある種の全能感を満足させる。

自分が理想と思い描いたことが、
目の前に出現する(イメージの中で)のだから、
そう思うのも無理もない。

(この、「世界は自分の力で改変できる」
ということを学ぶための箱庭療法は、
鬱や精神病を治療する可能性すらある)

しかしそのような全能感ブーストは、
ふと冷める時がやってくる。

特に終盤だ。


序盤は全能感が溢れている。
「まだどうなるかわからない」という期待含みなので、
「とにかく面白そう」さえあればよいからだ。
(それが、面白そうだけどあとあと回収できない奴かどうかは、
長いことやってればなんとなくわかる。
面白そうだけどただのハッタリを見抜けるようになる。
「ファイアパンチ」は、そのようなハッタリの張り子だった)

中盤でも「まだなんとかなる」と思っていることもある。
あとは落ち次第だなあ、なんて問題の先送りをして、
精神を楽にしているだけの可能性もあるけど。


しかし終盤ともなってくると、
このストーリーの限界点というか、
「この辺りにしか着地できない」
ということに気づき始める。

ストーリーが進めば進むほど、
ストーリーの可能到達点が下がってくる。
「これはここまで止まりの話だろう」が、
どんどん下方修正されてくる。

序盤の全能感の膨らみは、急速にしぼんで行く。


世界をひっくり返すものになるかもしれない、
と思われた期待は、
大したところまで行けなかった、
という失望に変わる。

あれだけあった全能感の高揚は、
丸裸で走り回っていた子供だったと恥ずかしくなる。
世界を完璧に表現できたと思ったのはただの錯覚で、
この程度しかなかったと気づく。

書き終えてから気づける、鈍い者は幸いだ。
一応完結までは書けるからだ。

鈍くない者は、どこか途中でふと冷める。
これ、想像したような完璧な作品ではない、と。


その冷めが作品に伝わり、
作品が熱を失い、
予想以上にしぼんでいくかもしれない。
そうして、
本来ならば最後まで走れたものが終盤に来て挫折、
ということも十分あり得る。

苦労したものが、なににもならなかったと知る恐怖は、
何者にも代えがたい。

色んなものを犠牲にして、長い時間耐えて来たものが、
結局は世界を変える物凄いものじゃなかったと知ることは、
何者にも代えがたい。

僕はいまだに「シャイニング」のあのシーンを思い出す。
一夏泊まり込みで、タイプライターを持ち込んで書き上げた、
夫の小説を妻が目撃するシーン。
同じ一文だけが、最初のページから最後のページまで書いてあるだけ。
一夏ずっと必死でやったものが、この程度。

あんなに色々考えたのに、こんなでしかないということは、
俺もジャックニコルソン同様狂っているのではないか、
という恐怖。

普通の人にとっては、
あの映画は斧を振り回し、迷路を追ってくる狂気の男が怖いのかも知れないが、
僕らにとっては、
あの原稿の意味のなさこそが恐怖だ。


これは本当に努力した人でないと分からないことかも知れない。
片手間で適当にやっている人には味わえないことかも知れない。

もしこれが恐ろしい恐怖ならば、
あなたは本気で取り組んだのかも知れない。

自分が大したことないと知るのは恐ろしい。


これに対処するたった一つの方法は、
「自分は大したことないのだ」と諦めることしかない。
まだリライトで挽回のチャンスもあるし、
そもそも俺はキリストではないし、
いや、キリストでも完璧な物語を書いたわけではない。

じゃあ、完璧なストーリーとはなんだろうと考える。

そのストーリーが用意した枠組み内で、
綻びのないものが、完璧と呼ばれるのではないか?


何も人類が出現して以来の完璧を目指さなくてよいのだ。
あなたの提供した枠組みの中で、
綻びがないものを完成させれば、
それはその範囲内で完璧なのだ。
完成していないものは、その評価すら出来ないではないか。

その範囲内が大したことなければ、
大したことある範囲内で完璧を作ればよいだけの話。
次はもっと大きな範囲に挑戦すればよい。

自分の風呂敷すら完璧にたためないのなら、
その次の更なる大きな挑戦は、
やっぱり畳めないに決まっている。

だから目の前の風呂敷を、
完璧に、綺麗に畳むことに集中すればよいのだ。

その風呂敷自体が完璧かどうかは、
あとで考えればいい。
リライトでどれだけ客観的になれるかで決まってくるだろう。

まずは目の前の風呂敷を、美しく畳もう。


物語には狂気がいる。
狂気でもないと、
こんなに時間のかかる孤独な戦いなど、到底続けられない。
ある種の勘違いが必要で、
俺は全能なのだという感覚は、
狂気を前に進めるのに重要だ。

しかしどこかで冷静に戻った時に、
その狂気や熱は、やっぱり意味があると思い、
その尻をきちんと拭くことだ。
そこが冷静に綺麗になっていれば、
その狂気は理性で報われるということだ。


あなたの狂気には価値がある。
自分の、と考えるから評価できないとしたら、
もう一人の誰かの、と離人的に考えてもいい。
理性がそれらを判断して、うまく統合してくれる。
この狂気を上手くプロデュースするとしたら、
このような畳み方であるべきだ、
とプロデューサー人格として考えればよい。

冷静と情熱は、このように使い分ける。


ということで、
終盤にありがちな挫折は、
主人公たちを家に返すまでが遠足だと思って、
乗り切ろう。

家に帰れなかった奴は、遠足をしたことにならない。
行方不明とか、客死というのだ。

たとえあなたの人生そのものが客死で終わろうとも、
主人公たちは家に帰しなさい。


完璧なストーリーは歴史上ない。
「その場での完璧」があるだけだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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