2019年08月31日

あれとあれは、ああいう風に繋がるのか

物語を見終えた時、しばらく余韻に浸ることがある。
(小説に関する調査によると、
小説を読み終えてから3日から一週間は、
小説を読んでないのに、小説を読むときに活動する脳の部位が活動するらしい。
つまり、我々は記憶の中で反芻する)

そのときに色々考える。
あれとあれが、ああいう風に繋がっていたのだなあ、
などと。


勿論色んな場面、すなわち点を反芻することも多い。

お気に入りのシーンや、
トラウマになったシーン、
あるいはディテール、台詞を何度も反芻することは、
よくあることだ。

しかしそれは点の記憶の反芻であり、
線の反芻ではない。


線の反芻というのは、
ああいう展開があって、
あれのあれがあそこに繋がるんだよなあ、
なんてことを反芻することだ。

それだけではない。
見終えたあとに、
鑑賞中あるいは直後には気づいていなかった要素同士の繋がりに、
気づいたりすることがある。

それはおそらく、
点の記憶の反芻中に気づくことだろうか。

ああ、ここのこれは、
あれのあれと、ああいう風に繋がっていたんだなあ、
という、繋がりの発見である。

なるほど、これが伏線だったのかとか、
実はこのときにこれを意識してたからか、とか、
ここで隠されたこととは、あとで判明するこれか、とか、
この時言ったことが、ついにこの事として実現するのか、とか。

線の繋がりを、
過去に遡ったり、時系列通りに並べたり、
シャッフルしたりすることによって、
発見したりする。

それが、
「余韻に浸る」のうちの一部にあるような気がする。


なるほど、よく構成されてるなあと、
あとあと気づくことは、
反芻の中で気づくことがわりとある。


これは、「理解」ということの一部だと思う。

点だったものたちが、
線で繋がっていくことで、
一種のネットワークを形成することが、
理解ということだと僕は思う。

たとえば英単語を点で最初は覚えるけど、
熟語や成句で覚えたり、
これのこれはこっちに使われてるから、
こうも使えるなとかは、
ネットワーク状の知識である。
そして、知識は点よりも線、ネットワークの方が強い。


もし物語が線でなく、単なる点の集合体だったら、
それは雑学王のような、互いに関係ない場面の羅列でしかないだろう。
物語はもっと複雑で、
内部にネットワークを抱えた構造になっている。

勿論鑑賞中に理解しながら進んでいくのだが、
反芻中に、気づいていなかった繋がりを発見することで、
ネットワーク的な理解がより進む、というわけだ。


つまり反芻とは、
点同士を反芻することで、
繋がっていなかったネットワークを、
繋げる行為なのだ。


ああ、だからこの時にこんなことをしたり言ったりしたのか、
などとあとで気づいたりする。

その記憶は大事にしよう。

あとでそう思えるようななにかが足りていなかったら、
リライトの時に足すことにしよう。


反芻してるときに、
なるほど、あれとあれはああ繋がるのか、
と発見が多いほど、
その物語を根本から楽しめた証拠である。

そういう風に書かれていれば、最高だ。


ただし、リンクばかりを埋め込んで、
ファーストコンタクトが面白くないのは、話にならない。
また、そのリンクが作品内で完結しているのではなく、
作品の外部とリンクしているのは、
僕はルール違反だと思う。
シリーズものはしょうがないけど、
それ以外はそれ単体で勝負するべきであり、
作品外の文脈を借りるのは虎の威を借る狐である。

それらをちょうど良いバランスに整えるのが、
リライトの主な役目かもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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