物語を見終えた時、しばらく余韻に浸ることがある。
(小説に関する調査によると、
小説を読み終えてから3日から一週間は、
小説を読んでないのに、小説を読むときに活動する脳の部位が活動するらしい。
つまり、我々は記憶の中で反芻する)
そのときに色々考える。
あれとあれが、ああいう風に繋がっていたのだなあ、
などと。
勿論色んな場面、すなわち点を反芻することも多い。
お気に入りのシーンや、
トラウマになったシーン、
あるいはディテール、台詞を何度も反芻することは、
よくあることだ。
しかしそれは点の記憶の反芻であり、
線の反芻ではない。
線の反芻というのは、
ああいう展開があって、
あれのあれがあそこに繋がるんだよなあ、
なんてことを反芻することだ。
それだけではない。
見終えたあとに、
鑑賞中あるいは直後には気づいていなかった要素同士の繋がりに、
気づいたりすることがある。
それはおそらく、
点の記憶の反芻中に気づくことだろうか。
ああ、ここのこれは、
あれのあれと、ああいう風に繋がっていたんだなあ、
という、繋がりの発見である。
なるほど、これが伏線だったのかとか、
実はこのときにこれを意識してたからか、とか、
ここで隠されたこととは、あとで判明するこれか、とか、
この時言ったことが、ついにこの事として実現するのか、とか。
線の繋がりを、
過去に遡ったり、時系列通りに並べたり、
シャッフルしたりすることによって、
発見したりする。
それが、
「余韻に浸る」のうちの一部にあるような気がする。
なるほど、よく構成されてるなあと、
あとあと気づくことは、
反芻の中で気づくことがわりとある。
これは、「理解」ということの一部だと思う。
点だったものたちが、
線で繋がっていくことで、
一種のネットワークを形成することが、
理解ということだと僕は思う。
たとえば英単語を点で最初は覚えるけど、
熟語や成句で覚えたり、
これのこれはこっちに使われてるから、
こうも使えるなとかは、
ネットワーク状の知識である。
そして、知識は点よりも線、ネットワークの方が強い。
もし物語が線でなく、単なる点の集合体だったら、
それは雑学王のような、互いに関係ない場面の羅列でしかないだろう。
物語はもっと複雑で、
内部にネットワークを抱えた構造になっている。
勿論鑑賞中に理解しながら進んでいくのだが、
反芻中に、気づいていなかった繋がりを発見することで、
ネットワーク的な理解がより進む、というわけだ。
つまり反芻とは、
点同士を反芻することで、
繋がっていなかったネットワークを、
繋げる行為なのだ。
ああ、だからこの時にこんなことをしたり言ったりしたのか、
などとあとで気づいたりする。
その記憶は大事にしよう。
あとでそう思えるようななにかが足りていなかったら、
リライトの時に足すことにしよう。
反芻してるときに、
なるほど、あれとあれはああ繋がるのか、
と発見が多いほど、
その物語を根本から楽しめた証拠である。
そういう風に書かれていれば、最高だ。
ただし、リンクばかりを埋め込んで、
ファーストコンタクトが面白くないのは、話にならない。
また、そのリンクが作品内で完結しているのではなく、
作品の外部とリンクしているのは、
僕はルール違反だと思う。
シリーズものはしょうがないけど、
それ以外はそれ単体で勝負するべきであり、
作品外の文脈を借りるのは虎の威を借る狐である。
それらをちょうど良いバランスに整えるのが、
リライトの主な役目かもしれない。
2019年08月31日
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