2019年09月01日

コントラストをあげよう

書き終えてから反芻する間にすること。


原稿を直したければ直すといいけど、
あまり推奨ではない。
なぜなら、
「結局直しに直しを重ねて、
終わらない泥沼になる」からだ。

気になる直したい部分は、
「原稿を見ずに」、
反芻している余韻の中でやった方が良い。

なぜなら、
原稿を直接見ずに直すことは、
「最後に残るものがこうあればいい(こうあるべき)」
という理想論だからである。

現実の原稿を見て直すと、
現実的な直しになり、
理想を見なくなる。

それは地図を見ない行軍と同じで、
足元の泥に方向性を見失う確率が高い。

まずは指し示す方向を決めてから、
泥沼と格闘したまえ。
灯台なき海は、遭難率100%だろう。


で、
余韻の中で反芻しているうちに、
あれはああした方がよかった、
これはいらない、あれはもっと追加しておいた方がいい、
なんてことを沢山思いつく。

なんで最初から思いつけなかったのか、などと、
悔しくなることもあるが、
それはしょうがない。
コロンブスの卵とはそういうものだ。


色々な改良点をイメージの中で出しておくことは、
あとあと見る記録として大変貴重であるから、
「書き終えた直後の反省」などとメモして、
今後やってくる、
下手したら執筆期間より長いリライト期間中に、
常に参照できるようにしておくとよい。

また、重ね重ねだけど、手書きがいい。
生々しいからだ。
この生々しさが、のちに生きてくる。
ダイレクトでストレートな反応だからである。



で、ようやく本題。

まずディテール的なことだけど、
コントラストをあげよう、
という話。

全ては、その作品内でのコントラストで決まる。

たとえば悲しいことと嬉しいことがあったら、
その振り幅がその作品のコントラストだ。

楽しいことと辛いこと、
多いことと少ないこと、
プレッシャーがかかることとほっとすること、
頭がいいことと愚かなこと、
優しいことと厳しいこと、
凄いことと大したことないこと、
笑いと大笑い、
驚きと予想通り、
常識と非常識、
危険と安全、
外と内、
前と後、
などなど、
さまざまな感情の対比があるだろう。

それらをなるべく遠ざけて、
全体のボリュームをあげるのだ。

悲しいことがあったらより悲しく、
嬉しいことがあったらより嬉しく、
ディテールを書き直すことを考えるのである。

対比がないところに、対比を新しく作ってもよい。
そのコントラストによって、
それはもっとくっきり見えてくる。

ひとつの対比だけでなく、
複数の対比を考えるべきだ。
その沢山の振り幅の中に、作品という宇宙が存在する。

時間的対比でもよい。
最初は○○だったが最後は△△だ、
なんてこともあるだろう。

その射程が長いほど、
コントラストが強くなる。


強い方がいい。
なぜなら、弱い話は、話がぼーっとしているからだ。
ちょっと嬉しくてちょっと悲しい話よりも、
死ぬほど嬉しくて死ぬほど悲しい話がよい。

ちょっと嬉しくて死ぬほど悲しい、
死ぬほど嬉しくてちょっと悲しい、でもよいが、
死ぬほど嬉しくて死ぬほど悲しいには、勝てないだろう。


たとえば先日書き終えた話は、
恐怖やトラウマがひとつのモチーフになっているのだが、
そこをもっと深掘りしないと浅いなあ、
なんてことを反芻しながら気づく。

たとえば一番怖いところはどこであるべきかな、
などと考えると、
ははあ、中盤前半の、地獄門のエピソードあたりだな、
なんてことに行き当たる。

これは、書き終えたからこそ判断できることだ。


最初から最後まで既に原稿があるから、
もっとも恐怖におののくべき場面はどこであるべきか、
を判断できるようになるわけだ。

これが執筆途中ならば、
「今がボトムだろうか、
この先にもっとボトムがあるかも」などと思って、
全力で一番の恐怖を書かないかも知れない。
結果的に、
もっとも恐怖を描く場面であるべきにも関わらず、
マックスを出していない状態の場面が残ることになるわけだ。

しかし執筆を終えてしまえば、
「ここよりボトムは他にない」ことがわかるので、
大胆に彫り込める、ということになるわけである。


そしてこれは、実際の原稿を見ながらよりも、
反芻で考えたほうがよい。

何故なら、全体像を見ながら、
かつ最も繊細なディテールで思い出せるからだ。

かつて僕は「全体像をうまく見ながら、
かつディテールを見れるようなフォーマットはないのだろうか?」
と、色々工夫したことがあったけど、
「人間の記憶による、脳内反芻がもっとも精度がコントロールできる」
ということに気づき、
脳内イメージを最大の「整理する武器」にすることにした。

脳内ではいくらでも全体像を反芻できるし、
いくらでもディテールを細かく見れる。

Adobeソフトのコマンド+-みたいに、
無限に拡大縮小できて、
しかもその縮尺で全体を見渡すことが可能だ。
脳ってすごい。反芻ってすごい。

これは他人の作品でもある程度可能だが、
「自分の書いたもの」の精度だからできることだ。

(逆にいうと、他人の作品を、
「まるで自分が書いたような精度」で、
分析できることが、真の鑑賞といってよい。
ほとんどの人は普段から書いてないから、
それが出来ない。だから素人の批評はほとんど意味がない)


ということで、
まず反芻でやれることは、
コントラストを深くしていくことである。

このメモを生々しい手書きで書いておき、
しばらく寝かしてリライト作業に入るまで、
ファイルしておくことをお勧めする。


感情は様々に振れるべきだ。
四方八方に、なるべく振り幅を大きく振り回す。

そのために、全体像から逆算する。
全体像がリアルに見えているのは、
反芻可能な数日間のみだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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