2019年09月05日

最後まで書けないのは、冒頭を最初に書くから

パラドックスかいな。
最初を書かなくてどうやって最後まで書くというのだ。

これは、プロットと執筆を別工程だと考えていないと理解出来ない。
結論から言うと、
プロットを最後まで書いてから、
初めて冒頭を執筆するのがよい。
殆どの人は我慢できなくて、先に冒頭を執筆してしまう。


その観点から初心者から上級者までの工程を見てみよう。


(初心者)
何も準備せず、思いついた!ので書いて行く。
あれえ?最初の勢いがなくなって、
つまんなくなってきた。
やーめた。

(中級者、最初のうち)
まず思いついた冒頭を書き記そうぜ。
忘れては大変だ。この情熱を叩きつけよう。
よし、全体を見通すためにプロットをつくろう。
…うーん、なんか冒頭ほど面白いのができないな。
ま、書いてるうちに盛り上がるだろ。
…うーん、無理だな。
…起死回生のアイデアが出るまで放置。


(中級者、後半)
まず思いついた冒頭を書き記そうぜ。
忘れては大変だ。この情熱を叩きつけよう。
よし、全体を見通すためにプロットをつくろう。
オチまで見えたぞ。
続きを書くのだ。
…よし、見事最後まで執筆し終えた。お疲れ俺。

…うーん、通して読んでみると冒頭がいまいちだな。
オチへの伏線や前振りになってないな。
よし、その前にワンシーン足せばうまくいくだろう。

しかし冒頭がもったりしている。
とはいえ、最初に書いた部分を消すのは嫌だなあ…

そもそも冒頭に書こうと思ったことと、
後半に書かれてることは違うことじゃんか。
どうしたらいいんだろう。
完成しないなあ…


(上級者)
アイデアが出たぞ。
最初から最後まで見通すぞ。
オチはこうか。なるほど、じゃ冒頭にこれを振っておくか。
間のことを色々考えるぞ。
そのことのこれも冒頭にあったほうがいいな。

これらを満たす最高の冒頭はなんだろう?

よし、これが面白そうだ。
頭から尻まできちんと見えた。

じゃああとはコツコツと書いていくか。



何が問題か?
「冒頭を最初に執筆してしまう」ことだ。

冒頭はプロット段階はまだ曖昧で構わないのだ。
オチが見え、テーマの落ち方が判明し、
かつ途中にあることも上手に設定してから、
なおかつツカミが面白く、
グイグイ来る冒頭でないと、
冒頭である意味がない。


それには、
全ての出る要素(出ない要素)が確定していないと決まらない。

そんな冒頭の執筆は、最初期には不可能だ。

また、プロットだけなら直せるからいいのだが、
一度執筆してしまうと、
「最初に書いた部分への愛着」が出てしまうことに注意されたい。

童貞を捨てた相手には愛着が湧いてしまう。
初めての給料日、初めての一人暮らしなど、
初めての何かには特別な愛情がこもってしまうのが人情だ。

その撞着を捨てて、
冒頭部の執筆を直すのは大変な苦痛である。
たとえ「良くないものを直すから」と理由づけたとしても、
大変苦痛である。
この苦痛から逃れるためなら、
「冒頭は直すべきではない。なぜならエネルギーが最高潮だからだ」
なんて理論を捏造してしまうくらいである。

だから、最初に冒頭を執筆してはいけない。


もし撞着をコントロールしたいなら、
最後の一文を先に書きたまえ。

そこだけは最後まで手を入れないようにしまたえ。

「オチは変えなくていいから、
どういう入り方をしてもいいぞ」
と自分に課すとよい。

そうすれば、書き直す苦痛を感じることなく、
ツカミのバリエーションを考えることに躊躇いはないだろう。


落語と同じだ。
オチは決まっている。
枕は、時代に応じて、客に応じて、演じ手に応じて、
千変万化してよいのである。

オチさえ決まっていれば、
「なんとしてもそこに誘導できる」
という確信があるから、
誘導の余裕がある。
余裕なきいっぱいいっぱいは、針の穴でつついたら割れる。
余裕があるからこそ、
いろんなことに目端が効き、
そういった余裕に観客は安心する。

ゴールが見えている迷路と、
ゴールが見えていない迷路の差だ。


若い間は必死しかないから、
がむしゃらに書いていくことも大事だ。

何度でも折れて構わない。
しかし何度も折れてると、
最後まで書いた経験のない人で終わってしまい、
まだデビューしてない30歳みたいになってしまう。

折れずに最後まで行くには、
やり方を変えてみるのも手だ。
参考までに。
posted by おおおかとしひこ at 09:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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