パラドックスかいな。
最初を書かなくてどうやって最後まで書くというのだ。
これは、プロットと執筆を別工程だと考えていないと理解出来ない。
結論から言うと、
プロットを最後まで書いてから、
初めて冒頭を執筆するのがよい。
殆どの人は我慢できなくて、先に冒頭を執筆してしまう。
その観点から初心者から上級者までの工程を見てみよう。
(初心者)
何も準備せず、思いついた!ので書いて行く。
あれえ?最初の勢いがなくなって、
つまんなくなってきた。
やーめた。
(中級者、最初のうち)
まず思いついた冒頭を書き記そうぜ。
忘れては大変だ。この情熱を叩きつけよう。
よし、全体を見通すためにプロットをつくろう。
…うーん、なんか冒頭ほど面白いのができないな。
ま、書いてるうちに盛り上がるだろ。
…うーん、無理だな。
…起死回生のアイデアが出るまで放置。
(中級者、後半)
まず思いついた冒頭を書き記そうぜ。
忘れては大変だ。この情熱を叩きつけよう。
よし、全体を見通すためにプロットをつくろう。
オチまで見えたぞ。
続きを書くのだ。
…よし、見事最後まで執筆し終えた。お疲れ俺。
…うーん、通して読んでみると冒頭がいまいちだな。
オチへの伏線や前振りになってないな。
よし、その前にワンシーン足せばうまくいくだろう。
しかし冒頭がもったりしている。
とはいえ、最初に書いた部分を消すのは嫌だなあ…
そもそも冒頭に書こうと思ったことと、
後半に書かれてることは違うことじゃんか。
どうしたらいいんだろう。
完成しないなあ…
(上級者)
アイデアが出たぞ。
最初から最後まで見通すぞ。
オチはこうか。なるほど、じゃ冒頭にこれを振っておくか。
間のことを色々考えるぞ。
そのことのこれも冒頭にあったほうがいいな。
これらを満たす最高の冒頭はなんだろう?
よし、これが面白そうだ。
頭から尻まできちんと見えた。
じゃああとはコツコツと書いていくか。
何が問題か?
「冒頭を最初に執筆してしまう」ことだ。
冒頭はプロット段階はまだ曖昧で構わないのだ。
オチが見え、テーマの落ち方が判明し、
かつ途中にあることも上手に設定してから、
なおかつツカミが面白く、
グイグイ来る冒頭でないと、
冒頭である意味がない。
それには、
全ての出る要素(出ない要素)が確定していないと決まらない。
そんな冒頭の執筆は、最初期には不可能だ。
また、プロットだけなら直せるからいいのだが、
一度執筆してしまうと、
「最初に書いた部分への愛着」が出てしまうことに注意されたい。
童貞を捨てた相手には愛着が湧いてしまう。
初めての給料日、初めての一人暮らしなど、
初めての何かには特別な愛情がこもってしまうのが人情だ。
その撞着を捨てて、
冒頭部の執筆を直すのは大変な苦痛である。
たとえ「良くないものを直すから」と理由づけたとしても、
大変苦痛である。
この苦痛から逃れるためなら、
「冒頭は直すべきではない。なぜならエネルギーが最高潮だからだ」
なんて理論を捏造してしまうくらいである。
だから、最初に冒頭を執筆してはいけない。
もし撞着をコントロールしたいなら、
最後の一文を先に書きたまえ。
そこだけは最後まで手を入れないようにしまたえ。
「オチは変えなくていいから、
どういう入り方をしてもいいぞ」
と自分に課すとよい。
そうすれば、書き直す苦痛を感じることなく、
ツカミのバリエーションを考えることに躊躇いはないだろう。
落語と同じだ。
オチは決まっている。
枕は、時代に応じて、客に応じて、演じ手に応じて、
千変万化してよいのである。
オチさえ決まっていれば、
「なんとしてもそこに誘導できる」
という確信があるから、
誘導の余裕がある。
余裕なきいっぱいいっぱいは、針の穴でつついたら割れる。
余裕があるからこそ、
いろんなことに目端が効き、
そういった余裕に観客は安心する。
ゴールが見えている迷路と、
ゴールが見えていない迷路の差だ。
若い間は必死しかないから、
がむしゃらに書いていくことも大事だ。
何度でも折れて構わない。
しかし何度も折れてると、
最後まで書いた経験のない人で終わってしまい、
まだデビューしてない30歳みたいになってしまう。
折れずに最後まで行くには、
やり方を変えてみるのも手だ。
参考までに。
2019年09月05日
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