何が最も重要か?
簡単に答えられるだろうか?
僕は、これらの大事さは、
各段階で変わると考えている。
アイデアの思いつきの当初:
テーマかキャラクターかストーリーかの、
どれか単独で発生して、それが核になる。
アイデアを練っている途中:
足りない部分を重点的に考えるため、
その時に重要なものは移動する。
プロット段階:
ストーリーとテーマが重要になる。
とくに部分ではストーリーが、
全体ではテーマが重要になる。
執筆段階:
圧倒的にキャラクターが重要だ。
彼らを通してしかストーリーは表現できない。
執筆とは、
彼らが何を考え、何を言い、
何を感じ、どう行動したかを、
一つ一つ積み上げていくことだ。
執筆とはディテールの一つ一つの積み上げで、
キャラクターしか見てる余裕はない。
時々ストーリーの地図確認くらいだろう。
それでも終盤に至れば、
テーマが重要になってくる。
リライト段階:
全てだろう。
これまで経てきた全てを何周もするからだ。
鑑賞段階:
キャラクターがメインだが、
中盤でストーリーが出てきて、
最後にはテーマが前面に出て、
テーマで終結する。
記憶を思い出す段階:
キャラクターとシチュエーションでラベリングするだろう。
初心者ほど、
最後の記憶、
すなわちキャラクターとシチュエーションで作ろうとするから、
ストーリーが作れないのだと考える。
テーマってなんや、ストーリーってなんや、
とその時になって分からなくなり、
だから最後まで書けることはまれだ。
そういう人は、キャラクターをAとかBとか、
男1とか女2とか、
「誰でもない普通の人」として抽象化して、
ストーリーだけを考えてみるといいかもしれない。
「どんな人にも当てはまる奇妙な体験」を考えるべきで、
「奇妙な人の普通の体験」は面白くならない。
で、ストーリーが最後らへんに来ると、
「これなんの為のストーリーだっけ」が気になる。
「なんでもない話だ」では足元がおぼつかない。
しかしそもそもストーリーはプロパガンダではない。
ある主張をするのなら、演説をすれば良い。
(もっとも、宗教、科学、演説に、
ストーリー形式は良く使われる)
これを最後まで見たら、
自然と「これはこういうことだ」を暗示することになるだろうな、
くらいの見方で良い。
「やっぱラーメンは美味いな」でも良いのだ。
大層なテーマを言う必要はない。
「何もない」よりは一つあった方が、
話がまとまる、というだけのことだ。
(二つ以上あるべきではない。
あるにしても、メインの一つがあるべきだ。
なぜなら、人は「これはこれ」と、
ある一つのストーリーに対して、
一つの記憶しかできないからだ)
テーマがあることで、
テーマに必要ないものの排除、
テーマに必要なものを構築または追加、
このテーマに適した労力、
などを自己判断、自己調整、自己構造化することが可能である。
書き手にとってテーマの効用はこれが大きい。
ログラインやテーマを都度書き直すのは、
このような効果があるわけだ。
大層なテーマを書くのは大層な努力が必要だから、
初心者のうちは普通のテーマで書くと良い。
(自分にはこんな壮大なテーマ書けない!と挫折するか、
竜頭蛇尾に終わるくらいなら、
自分の書ける範囲でまずは完成経験を積むことだ)
キャラクターとストーリーとテーマが揃えば、
自動的に書けるわけではない。
しかし足りなければ、
足りない料理しか生まれないだろう。
どれが大事か?はナンセンスな問いだ。
ラーメンは、麺かスープか具か?と同じ問いになる。
そして麺とスープの材料と具の材料を揃えたって、
うまいラーメンができないのも、
似ていると思う。
どれも重要だし、
重要度は各段階で変わる。
逆に各段階とは、
それぞれの材料の仕込みをする場所かも知れない。
>最後の記憶、
>すなわちキャラクターとシチュエーションで作ろうとするから、
>ストーリーが作れないのだと考える。
逆にB級のプロやセミプロの小説を読んでいると、素材やストーリー展開はまあまあなのにキャラに魅力がないな、と感じる作品がしばしばあります。
キャラクターがストーリーを語ることに従属させられてしまう、ストーリーを逸脱しないように話を進めるため、キャラが束縛されてしまう、のかな? とか思うのですが。
もっとも小説は文字メディアなので、キャラ立ちには不利な気もしますが。
映画や漫画は役者やキャラクターデザインの魅力にも助けられることがありますよね。
もっとも脚本も、人に見せる段階では文字メディアなので、小説とハンデは同じですが。
小説の場合に限れば、
「キャラを立てている間は描写のみになり、
ストーリーが進まなくなる」という欠点があります。
理想は、「キャラを立てながらストーリーが進む」ですが、
これができないと、
ストーリーのみ、キャラ描写のみ、
になってしまうのでしょう。
漫画の場合は「絵でキャラが立つ」こともあるので、
時間軸を止めなくてすみますね。
また、脚本上でキャラが立っていなくても、
監督や役者や衣装部や照明部などが、
キャラを立てて来ることもあるので、
上がりからは「どこでキャラが立ったのか」判別できない場合もあります。
(名作はほとんど脚本上ですでにキャラが立っているでしょうが)
いずれにせよ、三権分立というか三位一体というか、
その境地までいかなくてはなりません。
もちろん理想は「キャラを立てながらストーリーを進めながら、
実はテーマに関係している」です。
>執筆段階:
>
>圧倒的にキャラクターが重要だ。
ということは、大岡様は、実際に執筆段階の時点で、キャラの立て方を考えつつ、書いているということですか?(キャラ着想発のもの以外は)
(キャラ着想発以外の作品は)執筆以前はおおまかにしかキャラ設定を考えずに、むしろ執筆段階でドライブさせた方がうまくいく、ということでしょうか?
キャラと作品によりますかね。
特に決めてないです。
全員同じ精度で出来上がってるわけでもないし。
ただ執筆段階では、(経験があると思いますが)
想定よりも恐ろしく細かいレベルで、
キャラクターの気持ちや言葉を考えなければなりません。
鉄火場でストーリーやテーマに気を配ってる余裕はない、
という程度の趣旨です。
(だから事前にそこをやっとけ、ということ)
当初の想定よりも現場で良くなることは、
よくあることです。
いつもご回答ありがとうございます。
個人的なことをいうと、ぼくはいつもキャラが跳ねないというか、立たないというか、それで困っています。
プロットの通りに動く人形になってしまうというか。
そこそこうまい構成は立てられている気はするんですが、キャラが面白くない。
ぼくだけの問題じゃなくて、この「人形化」というのは、よく見かける気もします。
やはり三位一体の能力値というか、経験値が低いんですかね……。
逆に跳ねてるキャラばかり収集してみては?
フィクションだけでなく、ノンフィクションでも。
立ってるキャラの要素を分析できれば、何かわかるかも。
そのキャラクターの設定表のようなものを箇条書きにして、
ひとつ消すとキャラ立ちはどう変わるのか、
ひとつ何か足すとどう変わるのか、
想像するのも練習になります。
自分のストーリーの出演者を、
全部(他人が作った)立ってるキャラに入れ替えて演じさせてみると?
台本が同じで役者が変わるとどう変わるのか、
体験してみるのも勉強になります。
出演者を変えてもいいし、出演する人は同じだけど役を逆にして演じてみるとか。
なるほど。きっと、ぼくはこの辺の収集というか、キャラの引き出しが少ないんですね。
映画を見る時も(もちろんキャラに引っ張られますが)構成に注目することが多いので、無意識にキャラの収集度が低くなっているかもしれません。
知り合いの物書きは、小説を書く時、脳内で実際の俳優をキャスティングしてみるといっていました(例えば水谷豊をキャスティングして、相棒風に演じさせてみる、とか)。
そういう訓練や収集が大事なんでしょうね。
すっ、と自分の引き出しからキャラをキャスティングできるようになれば、どうにか一人前ということでしょうか。