2019年09月08日

奇譚

前記事のつづき。

「設定だけは面白そうだが、
ストーリーとしては微妙」というジャンルは、
「奇譚」と呼ばれることが多いように思う。


ふつうにストーリーも面白ければ、
傑作、名作、怪作、などと呼ばれるだろうからだ。

設定は珍妙で興味深いが、
そこ止まり、というニュアンスが奇譚にはあると思う。


奇妙な設定を味わうメディアが小説しかなかった頃、
つまり近代くらいまでは、
奇譚の舞台は小説か演劇しかなかっただろう。

この頃はそれなりに奇譚の需要は満たせていたと思う。
奇妙さを味わうのが、
そのメディアしかなかったからだ。

拾遺、異記などとタイトルについているものは、
そうしたものを拾い集めたものが多い。
「浦島太郎」や「桃太郎」はそうした奇譚の拾い集めである。
「落ちとかテーマがないやんけ」という批判は、
成り立ちを理解していないわけだ。
「桃から生まれる」「吉備団子で犬猿雉を家来に」
「海亀に乗ったら竜宮へ」「玉手箱を開けたらジジイに」
とかが、当時の「机の下の亜空間」だったわけだ。


映画やドラマが登場すると、
奇譚の舞台はそちらに移る。
ビジュアルが面白ければそれだけで奇譚をカバーしやすい。

また、ホラーや怪談は、奇譚の一部だ。

ホラーや怪談では必ずしもオチを求めない。
それが奇譚の構造と相性がいい。
恐怖やびっくりは、奇妙な感情の一部と考えられる。


で、奇譚は、
必ずしも落ちを必要としない。
本来は、落ちはストーリーになべて必要だが、
それが弱かったがゆえに奇譚に分類されるわけだ。

だから、「本来の」ストーリーからしたら、
一段下に見られる。
しかし「おもしろきもの」としての需要はあるから、
なくなることはない。

現在、奇譚、ホラー、怪談は、
ネットの世界に行ってしまった感がある。
勿論紙媒体や映画ドラマで出ることもあるけど、
それらはすでに「清書」「二度書き目」のニュアンスが強く、
第一次接触点はもうネットだと思う。

有象無象がネットに存在することが許されていて、
だからちゃんとしてなくていい、
というのは、奇譚との相性がいい。

(逆にいうと、
オールドメディアは「ちゃんとしなければならない」
メディアになってしまったということ)



あなたは奇譚を書くか?
書くのは自由だ。
ネットに転がし、ミームの一部になるのも悪くない。
(こないだ書いた、
「サイエントロジストはショックを受けた時、
『Oh, my Science!』という」は完成度が高いと思う)


しかし、
所詮「だからなんやねん」は、
どこまででもつきまとう。
現代美術と似ている気がする。

ストーリーというのは、
それよりも古い形式で、
「その面白さは、こういうことだったのだ」
と落ちに意味が存在し、
それをも楽しむメディアである。

奇譚は所詮奇譚止まりということだ。
机の下の亜空間は、みんな体験してる奇譚ではあるわけだが。

あなたがストーリーを書きたいのなら、
あるアイデアが、
奇譚向けのアイデアなのか、
ストーリー構造の一部をなすアイデアなのか、
見極める目が必要だ。
(そして足りない部分を指摘して、そこを思いつく力も)
posted by おおおかとしひこ at 18:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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