前記事のつづき。
「設定だけは面白そうだが、
ストーリーとしては微妙」というジャンルは、
「奇譚」と呼ばれることが多いように思う。
ふつうにストーリーも面白ければ、
傑作、名作、怪作、などと呼ばれるだろうからだ。
設定は珍妙で興味深いが、
そこ止まり、というニュアンスが奇譚にはあると思う。
奇妙な設定を味わうメディアが小説しかなかった頃、
つまり近代くらいまでは、
奇譚の舞台は小説か演劇しかなかっただろう。
この頃はそれなりに奇譚の需要は満たせていたと思う。
奇妙さを味わうのが、
そのメディアしかなかったからだ。
拾遺、異記などとタイトルについているものは、
そうしたものを拾い集めたものが多い。
「浦島太郎」や「桃太郎」はそうした奇譚の拾い集めである。
「落ちとかテーマがないやんけ」という批判は、
成り立ちを理解していないわけだ。
「桃から生まれる」「吉備団子で犬猿雉を家来に」
「海亀に乗ったら竜宮へ」「玉手箱を開けたらジジイに」
とかが、当時の「机の下の亜空間」だったわけだ。
映画やドラマが登場すると、
奇譚の舞台はそちらに移る。
ビジュアルが面白ければそれだけで奇譚をカバーしやすい。
また、ホラーや怪談は、奇譚の一部だ。
ホラーや怪談では必ずしもオチを求めない。
それが奇譚の構造と相性がいい。
恐怖やびっくりは、奇妙な感情の一部と考えられる。
で、奇譚は、
必ずしも落ちを必要としない。
本来は、落ちはストーリーになべて必要だが、
それが弱かったがゆえに奇譚に分類されるわけだ。
だから、「本来の」ストーリーからしたら、
一段下に見られる。
しかし「おもしろきもの」としての需要はあるから、
なくなることはない。
現在、奇譚、ホラー、怪談は、
ネットの世界に行ってしまった感がある。
勿論紙媒体や映画ドラマで出ることもあるけど、
それらはすでに「清書」「二度書き目」のニュアンスが強く、
第一次接触点はもうネットだと思う。
有象無象がネットに存在することが許されていて、
だからちゃんとしてなくていい、
というのは、奇譚との相性がいい。
(逆にいうと、
オールドメディアは「ちゃんとしなければならない」
メディアになってしまったということ)
あなたは奇譚を書くか?
書くのは自由だ。
ネットに転がし、ミームの一部になるのも悪くない。
(こないだ書いた、
「サイエントロジストはショックを受けた時、
『Oh, my Science!』という」は完成度が高いと思う)
しかし、
所詮「だからなんやねん」は、
どこまででもつきまとう。
現代美術と似ている気がする。
ストーリーというのは、
それよりも古い形式で、
「その面白さは、こういうことだったのだ」
と落ちに意味が存在し、
それをも楽しむメディアである。
奇譚は所詮奇譚止まりということだ。
机の下の亜空間は、みんな体験してる奇譚ではあるわけだが。
あなたがストーリーを書きたいのなら、
あるアイデアが、
奇譚向けのアイデアなのか、
ストーリー構造の一部をなすアイデアなのか、
見極める目が必要だ。
(そして足りない部分を指摘して、そこを思いつく力も)
2019年09月08日
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